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山口地方裁判所 昭和48年(ワ)145号 判決

原告 須郷寛

右訴訟代理人弁護士 田川章次

同 於保睦

被告 山口県

右代表者県知事 平井龍

右指定代理人 佐藤拓

〈ほか一〇名〉

主文

1  被告は原告に対し、金一〇一万七六一〇円及びこれに対する昭和四七年九月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  原告のその余の請求を棄却する。

3  訴訟費用は、これを四分し、その三を原告の負担とし、その一を被告の負担とする。

事実

(当事者の求める裁判)

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金二九三万三五〇〇円及びこれに対する昭和四七年九月八日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

3  被告敗訴で仮執行宣言のされる場合、仮執行免脱宣言。

(当事者の主張)

第一請求の原因

一  当事者

山口県知事は、山口県宇部市二俣瀬区大字木田字落畑にある後記ダムを管理しているものであり、原告は右ダムの下流に当たる厚東川流域の二俣瀬地区に居住して、自動車修理業などを営むものである。

二  公の営造物

厚東川の山口県宇部市二俣瀬区大字木田字落畑地点に設置されているダム(以下「本件ダム」又は単に「ダム」という)は、洪水調節、かんがい用水の補給、工業用水及び水道用水の供給並びに発電利用の目的で設置、管理されているダムであって、その構造、規模は別紙2図のとおりである。

三  ダムからの放流

1 気象状況

朝鮮半島北部まで北上していた梅雨前線は、昭和四七年七月九日午後ゆっくり南下し、山口県の北部を中心に強い雨を降らせはじめた。このため下関地方気象台は同日一六時一五分大雨雷雨波浪注意報を、続いて同日二一時三〇分大雨洪水警報、雷雨波浪注意報を発令した。その後梅雨前線は山口県地方に停滞し、しかも同前線上を小さな低気圧が次々に通過し、この前線を刺激したため、山口県中部以北を中心に雷を伴った強い雨が断続的に降り続き、特に七月一一日夜から明け方にかけて猛烈な雨が集中的に降り、右前線は次第に瀬戸内海へ南下していった。

2 本件ダムからの放流

本件ダムからの放流量は、昭和四七年七月一一日二二時には、それまで開度幅が合計一〇メートルであったダムのクレストゲート(調節用ゲート)を、一挙に合計一六メートルに拡げられたため、毎秒三七〇立方メートルから六五三立方メートルに急増し、さらに同日二三時には開度幅は合計二一メートル、放流量は毎秒八四五立方メートルに、二四時には開度幅合計一九メートル、放流は毎時九一七立方メートルに達するに至った。

四  本件災害の発生

本件ダムからの急激な右放流量の増加により、厚東川の水位は急増し、流水は二俣瀬地区においては堤防を越えて溢水し、そのために国道二号線の傍に駐車してあった原告保管の車両は約三〇〇メートル上流側の水田まで押し流され、また瞬時にして原告家屋は浸水した。

五  本件ダムの管理の瑕疵

1 洪水調節容量の不足

(一) 昭和三九年法律第一六七号で制定された新河川法は、戦後の水害発生の状況に鑑み、水系の一貫した全体計画に基づいて治水事業を計画的に実施する必要性が一段と強くなってきたことなどの要請にこたえるため施行されたものであり、その結果として本件ダムにおいても昭和四二年四月一日厚東川ダム操作規則が改正され(改正後の規則を以下単に「規則」という)、洪水調節容量を確保すべく予備放流制度が採用された。

(二) そして、規則によれば、本件ダムの洪水時の満水位は標高三九・二メートル(七条)、予備放流水位の最低限度は標高三八メートル(九条)とされ、右標高差一・二メートル、その容量二八八万六〇〇〇立方メートルを利用して、予備放流により水位を低下させて洪水調節を行ない(一〇条)、右予備放流は洪水調節の必要が生ずると認めたときに行なわれる(一五条)こととなっている。

(三) 前記新河川法は、当該河川の流域の洪水波形を想定し、それによって必要な洪水調節容量を定めることを要求しているものと考えられるが、本件ダムにおける右予備放流水位の最低限度の決定は、過去の洪水量、洪水期間から計画高水量を求め、さらに流域の状況を考慮して決定するというような科学的な洪水予測をしておらず、洪水調節容量の水位巾を一・二メートルと定めるについて前提となった無害放流量(予備放流をすることにより下流に溢水による被害を発生させることのない流量)毎秒二五〇立方メートルというのも何ら科学的な根拠のないものである。右水位幅は本件ダムにおいては常時満水位を保つことを大前提に決定されているものである。

(四) 被告が主張するように気象、水象の予測不可能な部分が非常に多く、また本件ダムにおいては、クレストゲートの操作に相当の時間を要するのが実態であってみれば、前記水位幅一・二メートルの範囲で洪水調節をすることは不可能に近いのであるから、余裕をもって放流量を制限し、放流量の抑制を長時間継続できるようにするため、絶対的なダムの空き容量の増大を図るべく、水位幅を最大一四メートルとする制限水位方式(洪水期に制限水位を設けて、その水位以上に溢水しない方式)を採用すべきであったが、これを採用せず、その結果本件災害時には後述のようにダムへの自然流入量よりはるかに多い量の放流がなされ、前記災害を発生させたもので、このことは本件ダムにおける洪水調節方式としての前記予備制限水位の設定に欠陥があったことを物語っており、したがって本件ダムにおいても、本件災害後である昭和四九年からは原告が主張するような制限水位方式による洪水調節方式が採用されることとなったのである。

2 クレストゲートの誤操作と放流抑制、過放流

(一) 規則によれば、上流から本件ダムに流入する水量が毎秒三〇〇立方メートル以上となる場合の流水を洪水と定義し(三条)、右規則の定める水量を放流することによって洪水調節をすることとなっている(一六条本文)。

(二) 本件ダム管理事務所作成の「厚東川ダム洪水調節状況図」によれば、昭和四七年七月一一日、ダムに流入する水量が右洪水に達した一八時から翌一二日四時までのダムへの流入量とダムからの放流量、その差(放流抑制量又は過放流量)、規則一六条本文により調節放流した場合の放流抑制量などは別表7表のとおりであり、規則一六条本文により放流した場合、右時間帯における放流抑制量すなわち本件ダムに貯留される水量は二六九万二八〇〇立方メートルで規則一〇条所定の洪水調節容量二八八万六〇〇〇立方メートルを下回っており、当時の流入量はダムの計画高水量毎秒一六五七立方メートルを大幅に下回っていた。

しかるに、当時ダムにおいては規則一六条本文に従った放流をせず、全くでたらめな操作を行ない、昭和四七年七月一一日の二一時から二二時の一時間にそれまでのゲートの開度幅を合計約六メートル拡げ(開度幅は合計一四メートルとなる)、ついで二二時から二三時までの間にさらに七メートル拡げ(開度幅は合計二一メートルとなる)、そのため、それまで毎秒三六八立方メートルであった本件ダムからの放流量は、右の二時間のうちに一挙に毎秒八八八立方メートルに急増し、この増量である毎秒五二〇立方メートルは被告のいう無害放流の二倍に当たり、これだけの流量が右の時間内に厚東川に放下されたのである。さらに本件災害が発生した一一日二四時間前後にあっては、本件ダムからの最大流量は本件ダムへの最大流入量を毎秒三立方メートル上回り、また右二四時にはその放流は流入量を毎秒三一立方メートルも超過するなど、自然流入量以上の過放流がなされた。このような異常なゲート操作の結果ダムからの放流水は厚東川二俣瀬地区の中洲にせき上げられ、右地区に急速に氾濫し、本件災害を発生させたものである。

(三) 右過放流の原因ひとつとしては、当日ダムへの流入量が増加しつつあったのに一八時から二一時までの間、ゲートの開度幅を順次拡張することなく八メートルに保ったまま経過したため、ダムの水位が上昇し、二一時以後増大するダムへの流入量に対し余裕をもって対処できなくなったことが挙げられ、これに対し被告は厚東川河口付近の住民からの要望により、満潮を考慮して規則一六条但書に基づき同条本文各号所定の量の放流をせずダムからの放流を抑制したと主張するが、右要望のあったこと自体疑問であり、右本文各号に基づき放流をしても河口部及び河口に近い市街地付近では右放流抑制したときとその水位差は殆んど認められず、右放流抑制には何らの根拠がない。そして、右放流抑制によって原東川二俣瀬地区においては河川水位の上昇が一時的になくなったため、原告を含む同地区の住民に溢水の予測を困難ならしめ、その後の急激な水位上昇と溢流への有効な対処をするいとまをなくさせたもので、右時間帯における放流抑制の過誤は重大である。

3 通知、警報の懈怠

(一) 規則二六条によれば、本件ダム管理事務所長は、本件ダムによって貯留された流水を放流することによって流水の状況に著しい変化を生ずると認める場合には、これによって生ずる危害を防止するため必要があると認めるときは、所定の関係機関に通知するとともに、一般に周知させるため必要な措置をとらなければならないとされているが、右所長は本件洪水当時前述のような放流量増加により厚東川の流水が増量することなどを右関係機関に通知せず、一般への警報を怠った。

(二) 原告ら二俣瀬地区の住民は、本件災害発生当日厚東川からの溢水の危険があればサイレンが鳴るはずであると考え、サイレンの吹鳴がないため、いまだ安全であるとして警戒心を抱くことなく、また避難準備もしないまま本件浸水時に至ったもので、右通知、警報が適切になされていれば、原告は顧客から修理のため預っていた車両を安全な高台に移動し、家財道具なども最小の被害に止まるよう移動するなど損害回避又は減少の措置をとることができたものである。

六  損害の発生

原告は、本件ダムの前記管理の瑕疵に基づき発生した本件災害により、次のとおりの損害を蒙った。

1 家屋に関するもの 二三万二五〇〇円

畳、戸が使用不能となったため新規に購入した代金及び壁など修理費用

2 家財道具 三五万三〇〇〇円

使用不能となった食料品、衣類、家具などの価額

3 営業用工具 五三万円

4 商品 一六六万八〇〇〇円

流失した商品の価額、水没により使用不能となった車両の価額及び車両の修理費

5 借入金利息 一五万円

借入金一〇〇万円、利率年五分、返済期三年後

七  結論

よって、原告は被告に対し、国家賠償法二条一項により、前記損害金合計二九三万三五〇〇円及び本件災害発生日ののちである昭和四七年九月八日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

第二請求原因に対する認否(認否に伴う被告の主張は後記のとおりである)

1  請求原因一(当事者)、同二(公の営造物)の事実を認める。

2  同三(本件ダムからの放流)の1(気象状況)の事実を認める。

同2(ダムからの放流)の事実については、昭和四七年七月一一日における本件ダムのゲートの開度幅及び放流量の推移は、後記被告の主張で述べるとおりであって、ゲートを一挙に拡げたとの事実を否認する。

3  同四(本件災害の発生)の事実のうち、水位変動の事実を否認し、浸水状況に関する事実は知らない。

仮に原告主張の浸水の事実が認められても、ダムからの放流と右浸水との間には相当因果関係のないことは、後記被告の主張で述べるとおりである。

4(一)  同五(本件ダムの管理の瑕疵)の1(洪水調節容量の不足)の(一)の事実のうち、昭和三九年に現行の河川法が制定されたこと、これを契機として、本件ダムにおいて昭和四二年四月一日厚東川ダム操作規則が改正され、洪水調節容量を確保するため予備放流制度が採用されたことを認める。

同(二)の事実を認める。

同(三)の事実を否認する。

同(四)の事実のうち、厚東川ダムにおいて昭和四九年から制限水位方式による洪水調節方式が採用されていることを除くその余の事実を否認する。

(二)  同五の2(クレストゲートの誤操作と放流抑制、過放流)の(一)の事実を認める。

同(二)の事実については、昭和四七年七月一一日における本件ダムへの流入量、本件ダムからの放流量、ゲートの開度幅の推移は後記被告の主張で述べるとおりである。本件洪水時に本件ダムからの放流が規則一六条本文に従って行なわれなかったことを認める。右放流は規則一六条但書により行なわれたものである。

同(三)の事実のうち、昭和四七年七月一一日一八時から二一時(正確には二一時一五分)まで、ゲートの開度幅を一定に保ち、本件ダムからの放流を抑制したことを認める。

(三)  同五の3(通知、警報の懈怠)の(一)の事実のうち、規則二六条が原告主張の内容の規定であることを認め、本件ダムにおける放流に関する通知等の実施方法は後記被告の主張で述べるとおりであるが、そのうち警報車はゲートの開度幅を五メートルとするときに出動した以後は出動していない。

同(二)の事実を否認する。

5  同六(損害の発生)の事実は知らない。

第三被告の主張

一  国家賠償法二条一項該当性

原告は、本件ダムの管理に瑕疵があったため、損害が発生したとして、国家賠償法二条一項に基づき本訴請求をしているが、ダムの管理の瑕疵とは、ダムの維持、修繕、保管に不完全なところであったため、ダム自体が通常備えていなければならない安全性を欠いていること、すなわちダムが貯水施設としての存在であることから人や財産に危険を与える可能性を有することを意味し、一定の目的のためにダムを操作するうえでの当否のような運営上の過誤は、右管理の瑕疵に当たらない。原告が本訴においてダムの管理の瑕疵として主張しているところは、いずれも人がダムを操作する過程における過誤であるから国家賠償法二条一項がいうところの管理の瑕疵に当たらない。

以下は、右主張が認められない場合を前提に主張する。

二  わが国におけるダムの概説

1 わが国におけるダム建設

わが国が近代国家となる明治時代までのダムの歴史は溜池の歴史といってもよい。明治に入り、一九一一年の電気事業法の制定を契機として、この伝統的なかんがい用水に発電用水が加わることによって河川水の利用の問題は、近代化への第一歩を踏み出すこととなった。さらに発電用水に次ぐ新しい水需要として、大都市への人口集中や産業の進展に伴って都市用水が登場し、大正末期の河川をめぐる様相は、各種の水利用が錯綜しておのおのの間の競合は激化の一途をたどる一方、水利用の進展に伴って流域の土地利用はますます高度化し、河道はますます制約され、しかも洪水防御の重要性はますます大きくなってきた。

このような社会的、経済的要請を背景として一九二〇年代の初め頃から多目的ダムを骨子とする河水統制の思想が生まれてきた。しかし、それはいうなれば洪水時の無益な余剰水がいたずらに河口から海へ流出しているのを貯水池によって貯留し、平水時に有効に利水目的に転用することにすぎず、いわゆる現在の多目的ダムが、洪水のピークカットによって、下流の洪水のピークを低減させるという機能を有するものとして誕生したのは次のような技術面での開発が行なわれた結果によるものである。すなわち、河水統制の時代には、ダム貯水池への流入洪水の予測が観測、伝達(通報)、解析の諸点で精度が悪いためにほとんど実行できず、したがって、洪水時の最大流入量を超えない限度で放流するのが精一杯であったが、現在のダムでは貯水池上流の気象、水象の状況をできうる限り事前に把握するために必要な観測及び通報の技術的水準が著しく向上したのに加えて、河川工学(水文学)の面では解析の手法も実測に基づくデーターを迅速に処理する技術が開発されたことなどから洪水の時系列的な把握ができるようになった。またダムが洪水を貯水し、放流する能力についてみると、ダムは例外的な一部のもの(洪水の規模に比べて貯水面積が大きく、少ない水深で貯留する能力があるもの)を除くと、その貯水池の地形上から貯水能力の絶対値が少ないため貯水量を増加させるには水深を深くする必要、すなわちダムの高さをできる限り高くする必要があり、したがって高水深で放流することが可能な水門を準備することが洪水調節を実行するための必須条件となるが、これも一九五五年以降に初めて高水深で調節しながら放流することが可能なダムを建設することができることとなった。

以上のような学問的、技術的制約のもとで河水統制事業は昭和一五年から同二五年までの間、一時戦争による中断を挟んで続けられ、一九五一年以降は河川総合開発事業へと発展的に継承され、また、一九五七年には特定多目的ダム建設事業も誕生し今日に至り、洪水のピークカットにより下流の洪水のピークを低減させるという洪水調節思想の実現は河川総合開発の時代及び特定多目的ダムの時代に到って飛躍的なダム技術の進展と共に開花するわけである。

2 ダムの種類

ダムはその設置の目的によって次のように分類することができる。

治水ダム

河川管理者が洪水の調節及び流水の正常な機能の維持を目的に河川法(昭和三九年法律第一六七号)八条の河川工事により設置するダム

利水ダム

利水事業者が河川管理者から河川法二三条、二四条及び二六条の許可を受けて、貯水池に貯留された流水を発電用水、生活用水、工業用水、農業用水等に利用するために設置する治水機能を有しないダム

多目的ダム

右治水、利水の目的を兼ね備えたダムで、治水及び利水の目的を効率的に図ろうとするもの

3 ダムの管理

(一) 操作規則(程)

ダムの管理に関する実際的事項は、河川法、特定多目的ダム法、水資源開発公団法によって次のとおり義務付けられた操作規則(程)に定めることとされ、それはダム管理の中核をなすものである。

この操作規則(程)は、河川管理施設である治水ダムについては、河川法一四条に基づき河川管理者が定め、河川管理施設のダムと利水ダムとの共同施設としての兼用工作物である多目的ダムについては河川法一四条に基づき河川管理施設として河川管理者が定めるほか、許可工作物として河川法四七条に基づき利水事業者が定めて河川管理者の承認を受けなければならない。ただし、兼用工作物である多目的ダムが河川法一七条の協議により河川管理者によって一元的に管理されることとなった場合は、河川法四七条は適用されず河川管理者の定めたもので操作される。

利水ダムについては河川法四七条に基づき定め、特定多目的ダム法によるダムについては特定多目的ダム法三一条に基づき定めることとされている。

また、水資源開発公団が設置したダムについては、水資源開発公団法二二条に基づき施設管理規程として定めることとされている。

(二) ダムの洪水調節

洪水調節容量確保の方式

ダムの操作はそれぞれの操作規則(程)に基づいて行なわれることとなるが、利水ダムを除く治水、多目的の各ダムにおける洪水調節容量の確保の方式としては、洪水調節のための容量を常に確保しておくサーチャージ方式、洪水期のみ制限水位を設けてその水位以上に湛水しない制限水位方式、洪水のたびごとにこれに先だってダムから放流を行ない、洪水調節のための容量を確保する予備放流方式がある(別紙1図参照)。

洪水調節の方式

洪水の調節の方式としては、(1)人工操作のためのゲートがなく、堤体に穴をあけ、あるいは堤頂部を切りかき、一定水位以上を流下させるもので、人工的な操作がないため、小流域で洪水の到達時間が短く、他の方法では操作が繁雑になる場合等に有効な自然調節方式(穴あきダム方式)と(2)いわゆるピークカットをして、流入量のうち一定の流量以上を貯留してそれ以下の流量を放流する一定量調節方式と(3)洪水の流入量のうち一定の流量以上についてピーク流量まで流入量に対して一定の率で貯留を行ない、ピーク以降は一定量を放流するもので、もっとも一般的な方式である一定率一定量調節方式等があり、これを図示したのが別紙1図である。

三  河川管理とダム

1 河川と河川管理

河川は元来、降雨、降雪という自然現象によって生じた多量の雨水、融雪水が高いところから低いところへ流下していく経路として自然的に発生し、長い年月の間に形成されてきたものである。河川はこの形成の過程において、太古の昔よりしばしば氾濫を繰り返し、河道や河幅を変え、絶えず変化してきた。このように河川は本来、自然現象による洪水氾濫という危険を内包しており、その危険を完全に回避することは不可能に近いものであって、治水面からみた河川管理すなわち治水事業とは、洪水氾濫という危険を内包している河川について、それぞれの河川のもつ特性に応じてその安全性をより高めてゆく努力の過程であるということができる。これを端的に言えば、河川は洪水氾濫という危険を内包したまま社会の用に供されているものであり、それを治水事業という方法によって時間をかけながら順次危険を軽減していくその努力過程が治水面からみた河川管理なのである。

しかし、河川は氾濫による水害という負の側面をもつ一方、人々の生活、文化、産業等の諸活動の根源をなすものであって、古来から人間社会に対し多大の恩恵を与え続けているのである。すなわち、人間と河川の関わりは単に「治水」の側面だけでなく、河川(特にその流水)が有する効用を人々は生活及び生産に役立てるという「利水」その他の利用の側面が存するものであり、河川管理にはこうした利水面からの管理も存するのである。そして、治水・利水の両面の管理とは、河川法一条に述べるごとく「河川について、洪水、高潮等による災害の発生が防止され、河川が適正に利用され、及び流水の正常な機能が維持されるように、これを総合的に管理」することなのである。

2 洪水防御とダム

治水機能を有する多目的ダムであれば、治水、かんがい、発電、上水道用水、工業用水等直接的なもの、間接的なものを含めて極めて広い範囲に及ぶ効果を期待することができ、また河川の改修に関して言えば、洪水時における流水を自然調節方式、一定量調節方式又は一定率一定量調節方式により減じることから、河川の改修計画に洪水調節ダム等が組み入れられた場合には、ダムの調節効果を考慮したものが河道の計画高水流量(ダムや遊水池で調節された後の河道各地点を流れるピーク流量をいう)となり、堤防の築造等は、この流量を対象として行なわれる。

このようなダムの洪水調節機能と河道の洪水防御機能が一致した状態において河川管理を行なうことが理想ではあるが、財政的、技術的及び社会的諸制約が河川管理に存することから、先にダムが設置され、河道の改修が遅れているのがわが国の現状である。

もっとも、ダムの建設が調査、計画、建設等に一〇年以上の年月を要し、いったん建設されたダムが半永久的施設として長期間、その機能を果たすことから河道の改修に先行して建設されたとしてもやむをえないものといわざるを得ない。

このようにダムを有する河川において洪水防御対策を考える場合、また洪水による被害が発生したときの原因を考える場合においてもダムと河道の改修が強い相関関係にあることを考慮しなければ河川管理の実態を知ることはできないものである。

四  厚東川の概略

山口県は、本州最西端に位置し、北は日本海、南は瀬戸内海に面し、その面積は六一〇二平方キロメートルで、その中央部を中国山脈が西走し、これは東部県境の寂地山(一三〇九メートル)を最高峰として西に向ってしだいに低くなり、海に向って丘陵性山地又は台地となって広がっているため、地形的には、山地丘陵台地が九〇パーセントを占め、低地平野部はわずかに一〇パーセント程度で、沿海地域と内陸、山間盆地に分布し、都市もこの地域に発達している。中国山脈の分脈・支脈より形成されている山間部より流出する山口県の河川は、いずれも急岐かつ流路が短いのがその特徴である。

二級河川厚東川は、美祢郡秋芳町の中国山脈内の山間部にその源を発し、丘陵地帯である秋吉台を南流し、本流の厚東川と平行して南流している最大の支流である大田川と厚東川ダムにおいて合流した後、宇部市の平野部を貫流して瀬戸内海に注いでいる。

厚東川の流域は厚狭郡楠町、美祢郡秋芳町及び美東町、宇部市の一市三町にわたり、その流域面積は約三八七平方キロメートルである。

流路延長は本流厚東川六〇キロメートル、支流大田川二八キロメートルで、河口より一三キロメートルの地点に本件ダムのダムサイトがあり、河川勾配は河口よりダム地点まで平均七五〇分の一、ダムより上流二一五分の一となっており、ダムを境に上流は秋吉台を中心とした丘陵地そして中国山脈の山地、下流はよく開けた耕地と山口県でも屈指の工業地帯で、ダムにおいて上流域三二四平方キロメートルからの水を本流厚東川、支流大田川等により本件ダムに集水、貯水し、屈曲のかなり多い下流部に流している。

五  本件ダムの諸相

1 ダムの建設

本件ダムは、宇部市及び小野田市における工鉱業の急速な発展とこれに伴う人口の増加による工業用水及び上水道用水の不足に対処し、これら用水の確保を図るため、昭和一四年四月に山口県利水事業計画の一環として建設計画がたてられたものであるが、たまたま同年夏に西日本一帯を襲った稀有の大干ばつの際、右両市の水源が枯渇し、著しい水不足の状態が発生したため、急きょかんがい用水の補給をもダム建設の目的に加えて、河水統制事業の国庫補助を受け、昭和一五年に建設に着手したものである。しかし、昭和一六年にぼっ発した第二次世界大戦のため昭和一八年に工事の中止を余儀なくされ、戦後に至って、ダム建設の目的に貯留水を利用しての発電事業を加え、昭和二三年に工事を再開し、昭和二五年四月に完成した重力式コンクリートダムで、本件災害時におけるダムの諸元、構造、容量は別紙1、2表及び2図のとおりである。

このように本件ダムは、本来上水道用水及び工業用水の確保並びに発電を目的として利水事業者が設置した利水施設であるが、昭和四二年に予備放流方式を導入した結果、不特定かんがい用水の補給及び一応の洪水調節機能をもった洪水施設としての河川管理施設であることにもなったのであり、今日では河川法一七条に規定する兼用工作物として位置付けられるものである。

2 本件ダムの利水機能

本件ダムは右のとおり利水を目的として建設されたものであり、その目的を達成するため規則に次のとおり必要な規定を設け利水の確保を先づ図っている。

上水道用水及び工業用水については常時満水位である標高三九メートルから最低水位である標高二〇メートルまでの容量二二五四万一〇〇〇立方メートルを利用して毎秒四・二八一立方メートルをダムから放流して供給することとし(規則一一条及び二四条三項)、発電については標高三九メートルから標高二八メートルまでの容量一七三三万一〇〇〇立方メートルを発電に利用することとしている(規則一二条)。具体的には、上水道用水については宇部市及び小野田市を対象に、通常、宇部市に毎秒〇・七六四立方メートル(日量六万六〇〇〇立方メートル)、小野田市に毎秒〇・一八七立方メートル(日量一万六〇〇〇立方メートル)、合わせて毎秒〇・九五一立方メートル(日量八万二〇〇〇立方メートル)を右両市の浄水場へ供給し、工業用水については宇部市及び小野田市に立地する企業に対し、毎秒三・三三〇立方メートル(日量二八万七七〇〇立方メートル)を限度として供給し、発電についてはダム直下の厚東川発電所に対し、最大毎秒一万九三〇〇立方メートルを供給している。

このように、宇部市及び小野田市の合計二一万三七六三人の住民(昭和五五年国勢調査)にとって本件ダムの貯留水は必要欠くべからざる生命の水ともいうもので、さらに山口県の代表的な工業地帯を構成する右両市の企業にとってもその産業活動を行う上で他に代替を求めることのできない貴重な資源である。

3 本件ダムの洪水調節機能

本件ダムは、前述のとおり上水道用水、工業用水等の確保を主目的として建設された利水専用ダムで近時、計画、建設される多目的ダムのように洪水調節をその目的の一つに考え、ダム建設段階において当該河川の既往のハイドロクラフ(洪水流出時間曲線)等に示される特性及び河川の流下能力を考慮し、計画規模を決定し、それに対応できる洪水調節容量を定めて計画し、建設されたものではなく、ただその貯留水を上水道用水、工業用水等に使用したことにより生ずる貯水池の空容量を利用しての洪水調節効果を期待するというものにすぎないものであった。

しかし、昭和三九年現行の河川法が時代の要請に応じて新たに制定され、その際ダムに関する河川管理者の権限が強化されたのを契機として、洪水が予想される場合に、それに備えて洪水調節容量を確保するため、出水の前に既に貯水池に貯留されている流水を放流することにより貯水池の水位を低下させ、洪水が終わり次第利水目的のため復元させる予備放流方式による洪水調節を図るべく、利水事業者と協議し、また宇部市の意見も徴した上、建設大臣の承認を得て昭和四二年四月一日予備放流水位の最低限度が標高三八メートルと決められたのである。そして、上流からダムに流入する水量が毎秒三〇〇立方メートル以上が「洪水」とされ(規則三条)、この洪水を規則一六条に定める方法により調節し、洪水による下流の被害を軽減することとされ、この洪水調節計画の最大効果は流入量が毎秒一六五〇立方メートルのときに毎秒一四五〇立方メートルを放流することにより毎秒二〇〇立方メートルを調節することにある。

4 本件ダムの管理

(一) 操作規則

本件ダムは、河川法一七条に規定する兼用工作物であり、河川法一七条の規定による利水事業者と河川管理者との協議により、河川管理者として山口県知事が昭和四二年四月一日に制定した厚東川ダム操作規則により一元的に管理している。

(二) 管理体制

本件ダムの管理機構については、河川管理者たる山口県知事を頂点に副知事、土木建築部長、土木建築部次長及び河川開発課(課長のほか課員一三人)の分任するところとし、現地に厚東川ダム管理事務所を設置して、本件当時ダム管理七年余という豊富な経験をもつ所長のもとに、主任、技師(二人)及び機械操作員、合せて五人が配置されていた。そしてその管理は、規則に基づき行なわれている。

日常における管理体制

日常における管理業務は、気象、水象等について調査測定を行なう、ダム本体及びゲートその他の機械器具、設備等について調査測定及び点検整備を行ないダムの正常な機能が保持されるよう安全管理を行なう、貯水池周辺及びダム周辺を巡視し、貯水池が正常な状態に維持されるよう管理を行なうもので、ダムの施設管理及び機能管理である(規則二九条及び三〇条)。

洪水警械体制

洪水警戒体制に入る要件は、下関地方気象台から降雨に関する注意報又は警報が発せられたときと、右以外で洪水が予想されるときであり(規則一三条)、右体制下の業務内容は、まず気象、水象に関する資料、情報の収集に努め、この収集された資料、情報に基づき来たるべき洪水についてその規模や変化の過程を予測し、洪水調節計画をたてるとともに、予備放流について検討し、予備放流水位を定め、さらに、ダムの操作について万全を期すためゲートその他の機械器具、設備の点検整備について再確認することである(規則一四条)。

(三) 洪水時の本件ダムの操作

洪水調節の方法

本件ダムは前述のとおり予備放流方式を導入し、一定率一定量調節方式によって洪水に対処することとしているが、具体的には前記洪水警戒体制時の諸措置をとったうえ、あらかじめ放流により貯水池の水位を予備放流の最低限度である標高三八メートルと洪水時満水位である三九・二メートルの内で当該洪水の調節をするため、予備放流水位まで低下させて行なうものである。その方法には、規則一六条本文による方法と同一六条但書による方法とがある。

まず、規則一六条本文による方法とは、ダムへの流入量が所定の洪水量である毎秒三〇〇立方メートルに達した後に、毎秒{(流入量-300)×0.852+300}立方メートルを放流し(規則一六条一号)、次に流入量が最大に達した後は、毎秒{(最大流入量-300)×0.852+300}立方メートルを流入量が当該量に等しくなるまで放流する(同条二号)、ただし洪水規模が大きく流入量が最大に達する以前に右一号の規定により算定された放流量毎秒一四五〇立方メートルに達した後は、流入量が毎秒一四五〇立方メートルになるまで毎秒一四五〇立方メートルを放流すること(同条三号)とされている。

次に規則一六条但書による方法とは、気象、水象その他の状況により特に必要と認める場合に、前記の操作によらないことができるよう定められているもので、これは、洪水には出水規模の小さいもの、大きいものがあり、洪水波形も著しく異なるものの発生することが多く、また下流における河川工事や満潮時等のため下流の水位が上昇しては困るというような場合には、前記本文どおりの操作を行なえば、結果的に洪水調節容量が有効に使用されなかったり、下流域に被害が生じたりする。かかる事態を最小限度にとどめるため、過去の操作実績、気象及び水象を勘案して、ダムの所長の判断により本文によらない操作ができるよう但書が規定されているものである。

このような方法により、洪水調節を行なうため、本件ダムは八門のクレストゲートが設けられ、本件災害当時そのうちの四門のゲートは本件ダムの管理事務所の操作盤によって遠隔操作し、他の四門のゲートは現場の動力操作盤によって行なっており、ゲートを一メートル開くのに約三分三〇秒を要していた。

流入量把握の方法

現実にダム操作を行なう場合、貯水池への流入量を把握する必要があるが、その方法として貯水池の水位の増減を計測し流入量を算定する方法、ダム上流に設置した水位観測所における観測結果を用いて、その地点から貯水池までの洪水到達時間等を加味して流入量を予測する方法(水位法又はH―Q法)、ダム上流に設置した雨量観測所における降雨量の記録から、貯留関数法、単位図法その他によって流入量を予測する方法(雨量法)、経験的に最大流入量、洪水総量などを推定して貯水池の実測流入量から流入波形を三角形とみなして予測する方法(三角パターンによる予測法)等があり、本件洪水時において本件ダムではを基にし、これにの方法を加えて流入量を予測し、これをにより算定された実測流入量で確認する方法を用いている。

また、水位及び雨量を観測するための観測局は別紙3図のとおり設置されていた。

ゲート操作の方法

規則一六条により洪水調節時における放流量が決定されると、貯水池の水位とゲートの開度と放流量との相関図からゲートの開度が決定され、クレストゲートを操作することとなるのであるが、このクレストゲートは八門、右岸側から左岸側へ第一号ゲートから第八号ゲートまであり、ゲート開閉の順序は、中央部第四号ゲートから開き始め、第五号ゲート、第三号ゲート、第六号ゲートというように左右交互に順次一門づつ開くこととされ(閉じるときは逆の順序となる。)、また一回の開閉は一メートル以内とされており、八門のゲートにかかる圧力がなるべく等しくなるようにしてゲートの保護をはかっている。

放流に関する通知等の実施方法

ダムによって貯留された流水を放流する場合の通知等については、規則二六条において、所長は、ダムによって貯留された流水を放流することによって、流水の状況に著しい変化を生ずると認める場合において、これによって生ずる危害を防止するために必要があると認めるときは、所定の関係機関(別添規則抜すい参照)に通知するとともに、一般に周知させるため必要な措置をとらなければならないと定められており、具体的には、毎年洪水期前(本件年度においては、昭和四七年五月二二日)に下流の関係機関と連絡協議会を開き、通知等の方法を協議し、その協力のもとに実施している。

その協議によって決定された通知等の実施方法を概説すると、本件ダムからクレストゲートの開度幅が一メートルに満たない放流をするときは、下流に影響がないところから関係機関への通報のみを行ない、その開度幅が一メートル以上の放流をしようとするときは、開度幅一メートル、五メートル及び八メートルに開けようとするときに、それぞれ関係機関へ通報するとともに、あわせて四か所の警報局を通じて警報サイレンの吹鳴をし、警報車の巡回をもって下流の住民に周知させることとしていた。そして警報局は、別紙3図のとおり設置されていた。なお、農業協同組合の有線放送設備を利用して周知させる方法もあるが、夜間(勤務時間外)は受付けてもらえないのが慣例であった。

(四) 予備放流水位の最低限度の決定の根拠

前記予備放流水位の最低限度の決定に当たっては、無害放流量、洪水予測に要する時間、無害放流によって予備放流水位まで貯水池の水位を低下させるのに要する時間、常時満水位までの復元等の問題を検討して決定されたものである。

無害放流量

予備放流にあっては、下流沿岸で溢水による被害が生じないように放流量を制限しなければならず、この放流量すなわち無害放流量は洪水調節を開始する時のダムへの流入量である毎秒三〇〇立方メートル又はそれより少ない流量のうちから本件ダムの下流の河川状況、具体的にはダムの下流の低地である末信橋の地点において流量が毎秒約二五〇立方メートルに達すると田圃に浸水するということを考慮して毎秒二五〇立方メートルと決定されたものである。

気象及び洪水予測の困難性

気象を予測する方法として一般的には、気象台の予報が利用されている。しかし、気象台の予報は、時間的には半日ないし一日程度というようにおおまかな時間幅であり、雨量は、例えば一五〇ないし二〇〇ミリという程度のものであり、地理的限定も県域あるいは県の山間部と平地部、北部と南部、または沿岸部と内陸部というような広範囲にわたるものである。したがって、ダムの管理に当たっては、気象台からの予報、県下の降雨状況等を参考にしながら、一方ではダム管理事務所で有する雨量計で流域内の降雨量を計測し、また上流の水位計で流量を把握しながらこれまでのダム管理職員の経験を踏まえて対処しているが、降雨のメカニズムは複雑であることから、気象観測技術及び気象学の急速な進歩にもかかわらず、精度の高い予測は困難であり、なかでも本件のような前線性のしかも局地的な降雨の予測は極めて困難である。このような気象予測の困難性に加え、山口県の西の雨量観測点のない海域から雨雲が進入して来るのが通常の降雨パターンである同県の特殊性を考えると、事前に降雨、洪水を予測して予備放流を開始できるのは台風等の例外を除き、洪水の六時間が限度である。

放流量からの限界

予備放流を開始するには、既述のようにまず洪水を予測して洪水調節計画をたて、予備放流水位を決定したのち放流のためクレストゲートを開くが、その開度幅を一メートル以上開けるには、さらに関係機関への通報並びに警報車及び警報サイレンによる警報等一連の通報、警報手続きを踏まなければならないので、約一時間三〇分を必要とする。クレストゲートの開度幅を一メートル開けて放流を始めても、一度に無害放流量の限度いっぱいの放流をすることは安全性の面からできず、徐々にないし段階的に放流を増加しなければならない。このため調節用ゲートの開度幅を一メートルにしてから無害放流量の毎秒二五〇立方メートルの放流を行なうまでに約二時間を要するのである。

これらの事情及びダムへの流入量を考慮して洪水予測時から予備放流開始までの最小限度の時間である六時間内にダムから放流できる最大限の水量を求めると、それは約二三八万立方メートルとなり、この水量は、本件ダムの常時満水位の標高三九メートルから標高三八メートルまでの水位幅の容量二三八万五〇〇〇立方メートルとほぼ一致する。このことを図示すると別紙4図のとおりとなる。

予備放流の復元と用水の利用

前述のように予備放流方式は、あくまでも洪水が予想される場合の一時的な措置で、利水目的を併せ有する本件ダムの場合、常時満水位の標高三九メートルの貯水容量いっぱいを利水目的に利用することになっている(規則一一条)ことから、予備放流を継続する必要がなくなれば右標高三九メートルの水位まで復元するよう努めなければならないとされている(規則二〇条)。特に、本件ダムにおいては、過去の実績からみて洪水期である六月、七月にダムに満水に貯留しなかった場合は、その後において節水を余儀なくされる関係にあり、予備放流の計画をたてる際に、気象、水象の予測を誤って無用の予備放流をすれば復元も困難となり、予備放流の復元ができなくなればその容量だけ利水目的に利用できなくなって、後に重大な支障を生ずることとなる。もっとも、水利権に基づき利水事業者が上水道用水、工業用水を供給しているのであるから、河川管理者は河川法の定めるところにより、適正な補償を行なって行政処分を行ない、利水の容量を制限することは可能ではあるが(河川法七五条及び七六条)、宇部市及び小野田市における上水道用水及び工業用水は本件災害当時、上水道用水で計画給水量が日量一二万五〇〇〇立方メートルに対し、本件ダムや河川から取水できる量は日量一一万八八〇〇立方メートルで日量約七〇〇〇立方メートルも不足しており、工業用水においては本件ダムから日量二七万七九〇〇立方メートルを実績として給水していたものの、不足に堪えかねて新規開発が計画され、日量七万六〇〇〇立方メートルの新たな用水を確保するため宇部丸山ダムの建設が山口県企業局により実施されており、本件ダムによる流水の最大限貯留への期待がまことに大きく、このように利水容量を制限することは非常に困難なことであった。

以上の理由により予備放流水位の最低限度が標高三八メートルと決定されたものである。

(五) 制限水位方式の採否

原告は、本件ダムが制限水位(最大一四メートル)を設けなかったことにダム管理の瑕疵があり、本件ダムが治水目的を有していたにもかかわらず、洪水調節に関して制限水位を設けず、予備放流水位幅一メートルの容量を利用して洪水調節を行なったため、洪水調節能力において著しく劣っていたと主張する。

しかし本件ダムに制限水位(一四メートル)を設けた場合にはダムの利水容量はその大部分を失い、宇部市及び小野田市に上水道用水及び工業用水を供給することは不可能となり右両市の市民生活、産業活動等は成り立たなくなることは明らかであり、このような事態を招く制限水位(一四メートル)の設定は、前記本件ダムの建設の経緯及びその果たしている利水機能からして許されないことであることは明白である。

およそダムの洪水調節容量に関し、設置または管理の瑕疵、換言すれば通常有すべき安全性の欠如の有無を判断するにあたっては、当該河川やダムの特性、河川全流域の自然的、社会的条件、関連費用(利水容量の制限に対する損失補償等を含む)の経済性等あらゆる観点から総合的に判断して、河川管理上、洪水調節容量の増加が必要不可欠であることが明らかであり、これを放置することが我が国における河川管理の一般的な水準及び社会通念に照らして河川管理者の怠慢であることが明白であるといえるような事情があったか否かを基準とすべきであると解するのが相当であるところ(最高裁昭和五九年一月二六日大法廷判決参照)、右のような事情があったといえないことは明白である。

六  本件災害時における降雨状況及びその異常性

1 気象及び降雨状況

昭和四七年七月九日午後以降の気象状況は、原告主張のとおりであり、同日二一時三〇分に発令された大雨洪水警報が同月一三日一八時三〇分に解除されるまで、実に六九時間も続くという異常な状況であった。そして入梅以来降り続いた雨に追打ちをかけるような形となった本件災害時の気象状況下の記録的な雨のため、本件ダム流域では降り始めから七月一二日二四時までの累計雨量は、本件ダム、男岳、綾木、岩永の各雨量観測局でそれぞれ四〇四ミリメートル、三七一ミリメートル、三一七ミリメートルに達した。また、特に本件ダム地点では七月一一日二一時から二二時までの一時間雨量が五五・五ミリメートル、前後三時間雨量が一〇九ミリメートルという近年に例を見ない集中豪雨を記録した。

なお、気象台からの予警報及び各雨量観測局地点の降雨量は別紙3表のとおりである。

2 降雨の異常性

昭和四七年七月三日から一三日まで一一日間も連続して降った梅雨前線豪雨は、梅雨前線の北上、南下、低気圧の次々の通過に伴い、まさにゲリラ的に日本列島のあちこちに毎日のようにどこかで集中豪雨をもたらし、気象庁より「昭和四七年七月豪雨」と命名されたほどの異常豪雨であった。この七月九日から一三日までの山口県地方の降雨がいかに異常なものであったかは、気象官署である下関地方気象台から「昭和四七年七月九日から一三日の九州北部、山口県の大雨に関する異常気象速報」が刊行されていることからも明らかであり、またその異常性は当時の新聞報道でも大きく取り上げられている。本件ダム流域の降雨は、この昭和四七年七月豪雨によりもたらされたものであることは言うまでもないが、なかでも本件ダムの位置する地域においては、降雨が長期間続いた後に時間雨量五五・五ミリメートルという強い雨が降ったことにより、厚東川の上、下流部では極めて大きな洪水が発生した。

洪水の大きさを位置づける方法としては、「何年に一回起こる洪水」というような発生確率で表現するのが一般的である。この確率は通常流域内に降った雨の確率で表わされるが、この場合降雨は時間的に変動する現象であるので、ある一定の時間帯を決定し、その間の降雨量で判断することとなる。本件洪水の場合、本件ダム地点の最大流入量に直接影響を与えたと考えられる総降雨量の発生確率でその規模が判断されるが、その適切な時間帯は厚東川と支流大田川の各上流端に降った雨がダム貯水池まで到達するまでの経過時間により決定される。これにより、ダム地点における最大流入時の七月一一日二三時からさかのぼること六時間の間に降った雨の総量一六二ミリメートルを判断基準値とすることに決定し、当該連続六時間雨量の発生確率を本件ダム地点における過去の降雨実績を基に岩井法により算定すると、一〇四年に一回の発生確率であるという解析結果が得られる。この結果から分かるように、本件災害時における本件ダム周辺の短時間雨量は、確率的にいって極めて稀にしか発生しない異常な集中豪雨であったということができるのである。

七  本件洪水時における本件ダムの操作

本件洪水においては、七月九日一六時一五分下関地方気象台から大雨雷雨波浪注意報が発令され、これに伴い、厚東川ダム管理事務所においては直ちに洪水警戒体制に入った。

まず、観測設備、警報設備その他の機械器具、設備を点検整備し、予備電源設備の試運転を行うとともに、気象台からの予報に留意しながら気象、水象の観測、情報の収集に専念し、刻々移り変わる状況に対応して、次のように洪水調節計画の策定とこれによる予備放流及び洪水調節を実施した。

1 予備放流

(一) 七月一〇日六時から同日二四時まで

大雨雷雨波浪注意報の発令された七月九日一六時一五分における本件ダム流域での降雨は皆無で、その後の降雨量も僅少であった。しかし、同日二一時三〇分大雨洪水警報が発令され、その後の雨量は一〇〇ミリメートルから一五〇ミリメートル、県の北部地方では一五〇ミリメートルから二〇〇ミリメートルに達し、洪水が起こる恐れがあるとされ、梅雨前線が南下の兆候を示していたこと及び九州において異常豪雨による災害が発生していたことを考慮し、大雨に対応できる体制を早期に整えるために予備放流を開始することとし、七月一〇日六時からそれまで貯水池の水位を常時満水位以下に維持するよう六〇センチメートルに保っていたクレストゲートの開度幅を気象、水象を観測しながら徐々に広げ、貯水池の水位を低下させていった。これにより、七月一〇日二四時に至り、貯水池の水位が予備放流水位の最低限度である標高三八メートルに低下した。

(二) 七月一一日一八時まで

貯水池の水位が予備放流水位の最低限度に達した後は、この状態を維持するための予備放流、すなわち流入量相当量を放流する計画をたて、七月一〇日二四時からこれを実施した。そうしたところ、翌日一八時に貯水池への流入量が毎秒三〇五立方メートルと洪水量の毎秒三〇〇立方メートルに達するに至ったため洪水調節に入った。

2 洪水調節

(一) 七月一一日二一時一五分までの調節

七月一一日一八時から貯水池への流入量が洪水量に達したため、洪水調節に入ったが、従前から厚東川河口付近の住民、漁業関係者からダム放流は満潮時を考慮に入れて行なうよう要望、陳情があり、これを考慮していた実績に照らし、また当日一六時河口付近の市街地の浸水により宇部市災害対策本部が設置されたことから、同日二一時五四分の満潮時を考慮し、二一時一五分までクレストゲートの開度幅を一定に保ってダムからの放流を抑制した。これは、規則一六条但書適用の操作を行なったものである。

(二) 七月一一日二一時一五分以降の調節

このような措置をとりながら一方、気象、水象の観測、情報の収集を続け、ダム貯水池への流入量の予測を実施していたのであるが、その結果流入量が急増することが予測されたため、七月一一日二一時一五分より徐々にクレストゲートの開度幅を広げていった。

この流入量予測の結果及びそれに伴う洪水調節の経過を次に述べると、

七月一一日二〇時での三角パターンによる予測の結果、流入量は二四時現在で毎秒九二九立方メートル、翌一二日一時現在で毎秒一〇三九立方メートルと算定され、二四時頃には毎秒一〇〇〇立方メートルもの流入量に達することが予測されたため、それまで満潮時を考慮して一定に保っていたクレストゲートの開度幅を広げることに決定し、放流に関する通報、警報の手続をとり、河口の満潮時とダムからの放流水の河口への到達時間を考慮して、これを二一時一五分より実施した。

一方、二一時時点での三角パターンによる予測とH―Q法による予測の結果、二二時の流入量は毎秒約七七〇立方メートルと予測されたため、二二時にはクレストゲートの開度幅を一六メートルにすることに決定した。

次に、二二時での同方法による予測の結果、二三時の流入量は毎秒約一〇〇〇立方メートルと予測されたため、二三時にはゲート開度幅を二〇メートルにすることに決定し、これを実施した。

さらに、二三時での同方法による予測の結果、二四時には毎秒一一〇〇から一二〇〇立方メートルの流入量に達すると予測されたため、二四時にはゲート開度幅を最高二六メートルまで広げる決定をし、二三時に一メートル広げゲート開度幅を二一メートルにした。ところが貯水池の水位は上昇せず、実際の流入量は減少傾向にあることが確認されたので二三時三〇分にゲート開度を減じ二〇メートルとした。

二四時でのH―Q法による翌一二日一時の予測流入量は毎秒八八八立方メートルで、これにより一時のゲート開度幅を一八メートルと決定してこれを実施し、その後は流入量の減少に伴って逐次ゲート開度を減じていった。

これまで述べてきたとおり、七月一一日二一時一五分以降のゲート操作は貯水池への流入量を予測し、この予測された流入量に対応しクレストゲートの開度幅を決定しダム操作を行なっている。これについても規則一六条但書適用の操作を行なったものである。けだし、それ以前の但書操作に引き続くものであるとともに、このような操作方法を採用しなければ、本件のように異常に大規模な洪水時においてはゲート操作の時機を逸する虞れが大きいからである。

なお、本件洪水時の水況記録、三角パターンによるダム流入量予測及び放流計画、岩永、綾木観測所の水位H―Q曲線からのダム流入予測及び放流計画は別紙4ないし6表のとおりである。

八  放流抑制とその後の操作の妥当性など

原告は、被告が規則一六条本文に基づかないでたらめなゲート操作を行ない、特に七月一一日二四時前後においては流入量を上回る量を放流し、また規則二二条に違反して下流に急激な水位の変動が生ずる放流を行なったため本件被害が発生したものであり、規則を忠実に遵守していればその発生を防ぎ得たと主張するので、以下これらについて反論する。

1 放流抑制の妥当性

七月一一日一八時から二一時一五分までの間、河口の満潮を考慮してダムの放流を抑えるダム操作を行なったことは前述のとおりであるが、これは干満の差の大きい瀬戸内海の潮汐に伴い下流感潮区間は水位が相当に上下し、特に本件洪水時のように満潮で大潮という条件が重なり昭和四七年七月における最も高い潮位となることが事前に知れている場合、ダムサイトから河口までの距離が短い本件ダムから多量の放流を行なえば下流感潮区間で著しい水位上昇を招くことは明らかで、さらに長期間の降雨によって飽和状態となっている土地へ雨水が浸透しない状況下にあって、下流域の水位の上昇を極力小さくすることは溢水、破堤を防止するとともに、堤内地の内水排除を容易にし、内水による被害に対して軽減効果が大きいことは多言を要しない。ことに本件洪水の場合は下流域の宇部市街地の浸水により同市に災害対策本部が設置されており、このような状況下ではまさに右下流域の水位低減が望まれたのである。

本件災害時におけるダムの放流の抑制による下流域の水位低減効果を不等流計算により解析すると、溢水、破堤による被害が最大となるとみなされる潮止め堰から沖の旦橋付近まででは、七月一一日二三時において低減水位が五〇センチメートル以上となり、その効果は明瞭である。

以上のとおり満潮時や宇部市街地の浸水状況等を考慮してダム放流を抑制した操作が妥当なものであったことは明らかである。

2 二一時一五分以降のダム操作の妥当性

七月一一日二一時一五分以降のダム操作は、流入量を予測し、この予測された流入量に対応してクレストゲートの開度幅を決定しダム操作を行なったものであることはすでに述べた。

この予測流入量と実測された流入量(いずれも立方メートル/毎秒)を比較すると次のとおりである。

区分

時間

七月一一日

二二時

二三時

二四時

七月一二日

一時

三角パターン法に

よる予測流入量

七六七

一〇二〇

一〇七二

H―Q法による

予測流入量

七六九

九二一

一二四五

八八八

実測流入量

八二四

九四八

八六一

九一三

右表をみてもわかるとおり予測流入量と実測流入量は二四時のそれを除いて近似しており、本件洪水時の流入量予測が妥当であったことが理解されよう(なお七月一一日二四時においては両者の間には差異がみられるが、これについては後述する)。また、本件洪水時の降雨量データーから単位図法を用いて解析計算を行ない流入波形を求めるとその結果は「厚東川ダム地点ハイドロクラブ」別紙6図参照)に示すとおり流入量ピークが七月一一日二四時毎秒一二六七立方メートルとなる明らかな一山形の流入波形となり、実測された同日二三時毎秒九四八立方メートル及び同月一二日一時毎秒九一三立方メートルとなる二度のピーク流量を有する二山形の流入波形と全く異なる結果となるが、一方、本件洪水時の流入量予測では流入量ピークが七月一一日二四時およそ毎秒一二〇〇立方メートルとなる一山形の流入波形が予測されており(別紙5図参照)、単位図法による解析と符合し、本件洪水時の流入量予測が妥当であったことが単位図法による検証によっても十分裏付けられる。

原告が特に問題とする七月一一日二一時一五分以降のゲート操作状況を詳述すると、まず一回目として中央部の一門を一分間に三〇センチメートルの速度(開閉速度は機械構造上毎分三〇センチメートルに固定されている)で、一メートル広げ、ここで一分間の間隔をおいてその隣りのゲートを一メートル広げる。こうしてゲートを二メートル広げるのに約八分間を要し、二メートル広げた時点でこの状態をしばらく保ち、一回目のゲートを広げ始めたときから一五分間(二メートル広げた時点の開度幅を七分間保つ)たつと二回目として一回目と同じ操作を行ない、これを繰り返してゲート開度幅を徐々に広げていくというゲート操作を行なった。

このように、流入量予測による洪水調節計画に基づき、途中で一定時間同開度幅を保ちながら一五分毎にゲート開度幅を二メートルずつ広げたものであるから、本件ダムから約二〇〇〇メートル下流の原告宅付近に至れば水位は緩慢な上昇となり、ゲート操作に伴う急激な変動は生じていないということができ、本件洪水時において、刻々と増大する流入量を調節しつつ、予測される最大流入量に対応する洪水調節容量を確保していたことは、流入量予測の正確さと適切なダム操作があって初めて可能となったものである。

3 降雨予測と過放流の不可避性など

七月一一日二四時前後において、わずかにダムからの放流量がダムへの流入量を上回っているが、これは既述のとおり、二四時の予測流入量に対応すべくダムゲートの操作を行なった結果であって、前記二四時の予測流入量と実測流入量の差、すなわち降雨量は減少しているのに二山目の最高流入量が出現したことは、本件ダム上流における破堤などにより一時堤内地に流水が貯留されていたことによるものと考えられる。

そして、前記予測に反して、二四時前後には予期しえない流入量の減少が起こったが、当時の気象、水象の状況をみると、下関地方気象台は夜中ぢゅうまだ断続的に強い雨が降るので厳重に注意するよう大雨情報を発しており、ダム上流の岩永、綾木両水位観測局で観測された水位は岩永で二一時五・七五メートル、二二時六・七〇メートル、綾木で二一時四・〇九メートル、二二時四・四五メートルと大幅に上昇しており、ダムまでの洪水到達時間である二時間を考慮すると二三時にはその後の流入量はさらに増加するとの判断しかありえず、右流入量の減少を予測することは不可能であった。

ところで、ダムへの流入量が減少していく場合のゲート操作は、流入量を実測しながらゲートを逐次閉めていくといういわゆる後追い操作が行なわれ、これはダムゲート操作の一般的な方法である。そしてこのような後追い操作では常に放流量は流入量を越えることとなるのである。そして右のとおり予期しえぬ流入量の減少が発生したため、この後追い操作がなされ、その結果わずかな過放流となったが、これも前述のように流入量減少の予測が不可能である以上避けることのできないものであった。

また当時の貯水池の最高水位が三八・七二メートルであり、洪水時満水位である三九・二〇メートルまで相当余裕があったのだからもう少し放流量を押えることができたのではないかとの反論があろうが、それは結果論であって、三角パターン及びH―Q法による本件洪水時の流入量予測に問題の余地がなく、七月一一日二三時をピークに流入量が減少することは予期しえなかったものである以上、同日二三時以降も増加すると予測された流入量を調節するため当然に洪水調節容量に余裕を持っていなければならなかったものである。

なお、降雨の正確な予測が十分に期待できず、また河川改修が前記のような種々の諸制約のために完全には達成できない現状においては、たとえ計画規模以内の降雨であっても、河川改修途上である限り、場合によっては如何なる操作方法によろうとも、ダムの操作により下流地区の災害を未然に完全に防止することができないこともあるのである。このような場合についてまで河川管理者の法的責任を問うとすれば、それは最早河川に絶対的意味での安全性を要求することに外ならない。そして、それは治水に対して不可能を強いるものといわなければならない。

九  放流に関する通知等

本件洪水時において、規則二六条に定める放流に関する通知等の実施を既述した所定の方法に従い適切に行なった。

すなわち、関係機関への通報を所定のとおり実施し、本件ダムゲートの開度幅を各一メートル、五メートル、八メートル以上広げる前にダム管理事務所の操作盤によって機器が作動していることを確認後警報局の警報サイレンの吹鳴を所定のとおり実施し、警報車の出動については、一メートル及び五メートル開けようとするときに所定のとおり行なったが、それ以後は本件ダム管理事務所へ通ずる唯一の連絡道が崩土のため通行不可能となったので出動することができなかったものである。

また、農協の有線放送は夜間は受け付けてもらえないのが通例であったことは前記のとおりであるが、本件においてはダム管理事務所の所長は敢えてこれによっても警報を発してもらうべく架電したのであるが、配線が幅輳していたためか通話ができなかったものである。そして、七月一一日二一時三〇分頃二俣瀬駐在所に対し、避難命令を発するよう要請もしているのであって、原告ら下流住民に対する警報に関しては、可能な限りの措置をとったものである。

特に原告宅近隣の二俣瀬農業協同組合屋上に設置された宇部市二俣瀬支所のサイレンによる周知がなかったことについては、右二俣瀬支所のサイレンは、従前はこれを利用して放流に際しての警報を行なっていたが、昭和四七年二月に車地警報局を設置したことに伴ない利用することを廃止し、二俣瀬地区への警報は車地警報局により行なうこととし、このことは昭和四七年五月二二日開催した厚東川ダム放流協議会において各関係機関へ周知せしめた。

一般にサイレン音の音達距離はその容量によって規定され、容量が大きくなるほどその音達距離も長くなるところ、車地警報局の警報サイレンの容量は七・五キロワット(一〇馬力、一馬力は〇・七四五七キロワット)で、山口県においてもまた中国、四国、九州の他県においてもダム放流警報サイレンとしては最大容量のものであり問題の余地のない警報能力を有しており、また、車地警射局の警報サイレン音の音達範囲は車地警報局から約八〇〇メートルの距離にある原告宅は最もサイレン音の聞きとりにくい条件(都市騒音地帯の条件)下においても十二分に聞こえる位置にある。この条件の下に設置された警報局により、前述のように警報サイレンを吹鳴させている。

一〇  因果関係の不存在

1 制限水位と因果関係

仮に本件洪水時において、貯水池の水位を越流頂の標高三三メートルに下げ(本件ダムの構造上、貯水池の水位をこれ以下に下げることは物理的に不可能である。)、クレストゲートを全開した形で自然調節方式による洪水調節を行なったとした場合又は予備放流水位を標高三三メートルに設定し、規則一六条本文による洪水調節をした場合であっても、その放流波形、放流量は同一となり、その最大放流量は毎秒八四五立方メートルとなる。これに対し、本件災害時の予備放流水位の最低限度である標高三八メートルで規則一六条本文による洪水調節をした場合の最大放流量は毎秒八五二立方メートルとなる。したがって両者の最大放流量の差はわずか毎秒七立方メートルにすぎず、この両者の各最大放流量を基準として算定した木田橋地点での河川水位の差はわずか二ないし三センチメートルにすぎない(別紙8表参照)。また、両者の放流波形もほぼ近似したものとなり、両者間に洪水調節能力において差異はないということができる。そうすると、本件ダムにおいて制限水位を設けなかったことと本件災害の発生との間には因果関係がないというべきである。

2 ダムの操作との因果関係

原告は、当時ダムにおいて、規則一六条本文による操作をしなかったことが本件災害発生の一原因であると主張するが、当時のダムの操作が規則一六条但書に基づきなされたものであることは既述のとおりであり、二俣瀬地区の家屋の浸水が始まったのは七月一一日二一時ごろと推定できるところ、ダムからの放流量は、七月一一日二一時一五分まではもちろん二一時三〇分においてもそれまで一定に保っていたゲート開度幅をようやく合計一二メートルに広げただけで、本文一号操作による放流量(毎秒七〇四・七立方メートル)を毎秒約二四〇立方メートルも下回る放流をしていたにすぎないし、また二二時における実績放流量は毎秒六四五・二四立方メートルであって本文一号操作による放流量(毎秒七四六・四四立方メートル)に比較してなお毎秒一〇一立方メートルも少ないものであった。同日二一時三〇分から二二時三〇分までの間の厚東川の二俣瀬地区における水位は約五メートルで、当日の最高位であり、その後水位は徐々に低下し、仮に厚東川が右最高水位にあったときに溢水があったとしても、本件ダムからの放流量は右のとおり本文操作による放流量より少なかったのであるから、本文操作をしなかったことと本件災害の発生との間には因果関係はない。

3 本件災害の発生と内水の滞留

(一) 原告宅の地理的状況

原告宅は、背後の丘陵地と原告宅より約五〇センチメートルも高い国道二号線に挟まれ、さらに南西側の傾斜地と北東側の二俣瀬交差点から厚東川ダムに通ずる道路及びその沿道の家屋とによって囲まれたいわば小さな盆地のような区域の一画に位置し、本件ダムから約二キロメートル下流の厚東川右岸側にあり、この間に支川甲山川が左岸に流入しており、この甲山川は流路延長一一・一キロメートル、高低差約一五〇メートル、平均河川勾配約七五分の一という急流で、一度豪雨に見舞われると、いわゆる鉄砲水となって流出する河川である。また原告宅付近に架っている木田橋の下流には二俣瀬の地名が示すように厚東川の流心部に中の島があって流水の疏通能力を阻害し、河川の水位を押し上げる要因となっている。そのうえ、この地域一帯の降雨の堤外への排出は、原告宅横の小さな排水路と二俣瀬交差点から厚東川ダムへ通ずる道路の横を通り二俣瀬交差点の下をくぐって厚東川に流れこむ小河川によって行なわれているため、原告宅付近の一画は降雨が厚東川へ流出する際の集水地に当たり、その集水区域は広く背後の丘陵地の尾根と南西側に位置する地域の尾根によって囲まれた地域一帯に及んでいる。したがって、原告宅付近は集中豪雨に見舞われた場合には雨水の急激な流出との滞留による浸水被害をいち早く蒙るような地理的状況にあるといえる(別紙7図参照)。

(二) 本件豪雨の流出状況

昭和四七年七月一一日四時から間断なく降り続いた雨は、二四時までの間に合計二五一・五ミリメートルの雨量を二俣瀬地区にもたらしたが、その中でも、特に本件浸水被害に直接影響を与えたとみられる一七時から二三時までの間においては、連続雨量一六二ミリメートルを記録した。この異常豪雨によって原告宅付近は急激に流れ出した多量の雨水に包まれたことは、前述の地理的状況から明らかである(別紙7図参照)。

(三) 内水の滞留状況

ところで、原告宅付近に集まった流出降雨が内水としてどのように滞留するかは、排水路の疏通能力と流入量の関係及び厚東川の水位の状況によって決定される。つまり、堤内集水地への流入量が排水路の疏通能力を上回れば内水は徐々に滞留を始めるのであり、さらに、厚東川の水位が高まればそれにつれて排水路の疏通能力は制限され、加速度的に内水が滞留していくことになる。したがって、仮に排水路の疏通能力による排水量の制約という内水の滞留要因の一つを除外して考えるとしても、厚東川の水位が原告宅付近の排水口を塞ぎ始め内水の排出を阻害し始めた時点から、原告宅付近に集まった雨水は徐々に内水として滞留を始めると考えられる。この場合、内水の滞留による堤内地の水位は、少くとも厚東川の水位とほぼ平行して上昇していくことになる。

さらに、排水口が厚東川の水位の上昇により完全に塞がれれば、その時点から全く排水は行なわれず、その後流出する雨水のすべてが原告宅付近の堤内地に内水として滞留してゆくと考えることができる。そして原告宅のある厚東川右岸の排水口の上端は最も高い標高を有するものでも一三・一メートルでしかなく、厚東川の水位が上昇すれば原告宅付近の内水の排除を阻害することとなる。厚東川の水位は七月一一日一九時に四・五メートルとなっており、右水位四・五メートルは標高一三・〇一九メートルに相当し、一九時以後も河川水位が上昇を続けていることから、同日一九時三〇分には原告宅付近の内水排除は全くできない状態となったであろうことは明らかである。

通常内水の滞留水位は、内水が滞留するとみられる地域を一つの容器に見立てて、その地域の各々の標高と面積から、貯水容器としての形状及び容量を決定し、この地域に降った雨が容器に貯留されていく状態で示される。そこで、本件豪雨による原告宅付近の内水の滞留状況について検討すると、次のような形になる。原告宅付近の内水の滞留水位を計算するには一九時三〇分時点における内水の水位が標高一三・一メートルで、その時点以降の内水は排水されることなく、滞留するものとして算出することになるが、まず、第一段階として、原告宅付近の一画(丘陵と国道二号線と二俣瀬交差点からダムへ通ずる道路によって囲まれた区域。別紙7図のA1。)を内水滞留区域として設定し内水の滞留状況をみると、別紙8図の浸水曲線A1に示すとおり、原告宅付近の内水位は二四時時点において標高一六・二メートルにまで達することになる。次に、第二段階として、滞留した内水の流動を考慮して、内水の滞留区域に原告宅付近の一画(右A1)のみではなく上流区域(別紙7図のA2)を含めた場合、内水の滞留状況は別紙8図の浸水曲線A2に示すとおり、原告宅付近の内水位は二四時時点で標高一四・八メートルにまで達することになる(なお、別紙8図の浸水曲線A1及びA2は、いずれもモデルを設定しての計算結果であるので、現実の内水による滞留水位の標高が何メートルになるかは確定できない。)。このように蓋然性のある二通りの滞留区域を仮定して降雨の流出状況及び内水の滞留状況を見たが、この結果が示す如く、原告宅付近は地理的条件から見てその一帯の降雨が集まり滞留する位置に当たり、本件豪雨のような異常降雨に見舞われた結果、極めて短時間のうちに内水による浸水被害を蒙ることとなったものである。

(四) 河川水の溢流の不存在

前記内水排除が不能となった一九時三〇分以後の二一時から二二時の間に二俣瀬付近では本件ダムサイトと同様時間雨量五五・五ミリメートル、同日二二時から二三時の間時間雨量二三ミリメートルという集中豪雨により内水位は急上昇し、一方河川水位は同日二一時一五分以後のダムからの放流と集中豪雨による甲山川からの流入が加わり上昇を続けていたものと推測される。その結果、内水位と河川水位とは互いにきっ抗する形で上昇し、原告が自動車を放置していたとする付近では、内水と河川水は互いにせめぎ合うような状況を呈していたことが想定される。この場合、河川水の水勢が内水の流出しようとする力に勝れば、当該地点の大勢的な水の流れは堤内地側へ向かい、それに伴って河川水の堤内地側への溢流も起こるわけであるが、前述のとおり内水位もみるみるうちに上昇していること、二俣瀬交差点付近の厚東川の断面の状況から判断して河川水は中洲を挟んで左岸側の広い断面に集中していたと考えられること、さらに河川水は下流方向へ流下しており堤内地側への水勢はさほど強いものとは認められないこと等を勘案すると河川水は二俣瀬交差点付近の国道を越えて厚東川へ流れ込もうとする内水を押し返すような作用を果たしていたにすぎず、堤内地側への河川水の流込みはなかったと考えられる。

以上のとおり、本件災害は、急激な内水の発生とその滞留によるものである。

4 本件災害の発生と甲山川からの流入

仮に原告主張のように河川水の溢水により一部浸水被害がもたらされたものであるとしても、前述のように浸水が始ったと考えうる二一時頃はダムからの放流により溢流が起こり得るべくもなく、異常な集中豪雨によるダム下流の残流域から急激な流出による河川水の増大が大きな影響を与えていることは、二二時三〇分以後本件ダムの放流量が増加しているにもかかわらず厚東川の水位が低下していることからも明らかであり、この甲山川から厚東川への多大の流入が溢水の原因である。ちなみに、支川甲山川の流出状況を単位図法により解析すると、二二時で最大流量毎秒約二〇〇立方メートルにもなり、本川厚東川の河川水位上昇に大きく寄与していることがわかる。

5 本件災害の発生と河川改修

なお付言すれば本件洪水における厚東川の流量は、本件ダムからの放流量が最大のときでさえ毎秒九二五・五〇立方メートルであることから、厚東川の河川改修が予定している毎秒一六〇〇立方メートル以下であったことは明らかで、それにもかかわらず溢水があったことが事実とするならば、厚東川の二俣瀬地区が未改修であったことが溢水の原因と考えざるをえない。しかしながら、昭和三七年に策定した中小河川改良工事全体計画に基づき、他の山口県内の河川に比較してもけっして劣ることのない事業費を投入して河川改修を実施していること、二俣瀬下流の末信橋付近が無害放流量を超える流量を本件ダムが放流した場合に被害が発生する事実、二俣瀬地区の厚東川にあった中洲が河川管理者が買収しなければならない民有地であるがなかなか買収が困難であったこと等河川管理の特質に由来する財政的、技術的及び社会的諸制約が厚東川の河道改修に当たっても存することは明らかで、これらの諸制約にもかかわらず河川管理者は、本件洪水の発生前から河川管理の責任を怠ることなく続けており、溢水の事実が仮りにあったとしても河川管理に瑕疵がないことは明白である(前記最高裁判決参照)。

第三抗弁

過失相殺

原告は、昭和三二年一〇月二八日現住所に転入してきて、本件水害以前にも同じように浸水被害を受けていて原告宅付近が浸水しやすい土地であることを熟知していたものである。そして七月一一日二〇時ごろには木田橋左岸(原告宅の対岸)のたもとにある民家が折からの水位の上昇により浸水をはじめたため、付近の住民は総出で商品や家財道具を安全な場所へ移動していた状況にあった。このような状況下にあっては、原告も適宜自ら避難の措置をとり、損害の発生を未然に回避すべき注意義務があったのに、原告は何らの措置を講ぜず、また修理のため預っていた自動車を河川沿いの場所に放置していたものである。

第四抗弁に対する認否

抗弁事実を否認する。

第五証拠関係《省略》

理由

第一当事者

請求原因一(当事者)の事実は、原、被告間に争いがない。

第二本件災害の発生

《証拠省略》によれば、昭和四七年七月一一日原告の家屋が浸水し、国道の傍の空地に駐車してあった原告保管の車両が、同所から北ないし北西方向へ約三〇〇メートル、右徳田方附近の水田にまで、水流により押し流されたことが認められ、反証はない。

第三本件災害の発生と河川水の溢流

一  厚東川と各家屋の位置関係など

《証拠省略》によれば、原告宅、吉冨ヒサコ宅、宇部市農業組合二俣瀬支所(当時は二俣瀬農協、以下「支所」という)の建物、徳田フミ子宅、清水実宅、二俣瀬交差点南側の倉庫は、いずれも本件ダムサイトから厚東川に沿って約二キロメートルの下流域にあって、その各位置関係は別紙9図記載のとおりであること、国道二号線は厚東川に架る二俣瀬橋方面から、二俣瀬交差点にかけて低くなり、同交差点が一番低く、それから下関方面に向かって昇り勾配となっており、右国道の東側で、厚東川の右岸に沿って通ずる道は、木田橋から下り勾配で二俣瀬交差点で国道と交り、この道と国道に挾まれ、二俣瀬交差点を頂点とする三角形の範囲の土地上に吉富ヒサコ宅、支所、ガソリンスタンドがあること、原告宅の地盤はその東側を走る国道より約五八センチメートル低く、原告宅が面する道(旧国道二号線)の標高は、右二俣瀬交差点と殆んど変らず、やはり相当低いこと、ついで徳田方へは右交差点から一本の道が通じているが、これは右交差点から下り勾配であって、交差点と徳田宅近くとの標高差は約五〇センチメートルであり、また徳田方へは右交差点から二俣瀬橋方面へ寄った国道からも通ずる道があり、これも徳田宅方向へ下っていて、国道からの入口附近と徳田宅附近との標高差は約三〇センチメートルであることが認められる。

二  各家屋の浸水開始時と浸水位

《証拠省略》によれば、昭和四七年七月一一日、徳田宅では二一時以後に家屋への浸水が始まり、息子に起こされた徳田フミ子が家を出て避難するときは、宅地上六〇ないし七〇センチメートルのところにある床上にあって、右徳田の膝ぐらいまで浸水してきており、当夜の最高浸水位は標高にして約一四・七九メートルであったこと、吉富ヒサコ宅でも浸水がはじまり、同人が在宅中は宅地上約七八センチメートル以上に水位が上昇しつつあったが、前記検証時にも同玄関内の右側セメント壁部分に変色した線があり、その高さは標高にして約一四・八七メートルであること、萬屋久文は当夜は前記支所で宿直をしていたが、二一時前後ごろ二俣瀬交差点の北東角で、標高にして一三・六一メートルのところにある農協のガソリンスタンドから浸水中との連絡があってかけつけたが、その時の水位は同人の膝より少し下ぐらいであって、なお増水しつつあり、一〇ないし二〇分後には膝よりはるか上にまで水位が上昇したため支所へ引き返し、二四時前ごろ支所の前の国道二号線上では水位は同人の腰の上ぐらいまできていたこと、原告は近くの豚舎の豚が埋ったため救出に出かけていたが二二時すぎごろ妻から家が浸水中であるとの知らせを受けて帰宅したところすでに浸水位は宅地上から約一メートルまできており、その後これは増加して最高浸水位は標高にして約一四・六一メートルであったこと、清水宅は厚東川に面して建っていて、一階は厚東川の左岸を走る道の下にあり、その道からは二階へ出入りするような構造になっているが、当日は二〇時三〇分ごろには一階に浸水しはじめ、二一時三〇分ごろから二二時三〇分ごろまでが最高で、その時の水位は標高にして約一四・九八メートルであったことが認められ、さらに証人松本栄治の証言(後記措信できない部分を除く、以下同じ)によれば、当日松本の家族は二俣瀬の公舎にいたが、公舎はダム堤から一・五キロメートル、原告宅から三〇〇メートル離れた位置にあり、原告宅とは反対に国道より約五〇センチメートル高い場所にあったが、当夜やはり浸水し、二一時ごろ家族の避難したことが認められる。

なお証人清水実はその第一、二回の証言において、前記最高浸水位のとき厚東川の水位は木田橋の橋桁(枕)へ水が当たる程度であったと供述し、第一回の検証の結果によれば、右橋桁の下端は標高一三・五七九メートルであって、右橋桁の幅と流水が橋桁に当たって脹れることを考慮しても、右供述どおりとすれば、計算上は前認定の最高浸水位と右河川の水位との間に約一メートル余りの差異があることとなるが、右証人の証言によっても認められるように、当時は夜間であり、しかも清水にすれば、自宅に浸水していて、時には家屋流失の危険性をも考えられる緊急時にあって、浸水位については同所にいた消防団員とも話をしており、刻々の浸水状況については詳細かつ具体的に述べているのであるから、いかに清水が河川水位の測定を依頼されていたとはいえ、前記最高浸水位についての供述よりも右河川水位についての供述の方を信用しうるものとはいうことはできず、さらには、清水宅は厚東川の左岸にあり、後述のように同地附近における厚東川の流れ(上流から東へ迂回するような形で流れ込んで来る)とその流速、その他の地理的、物理的諸条件いかんによっても右最高浸水位と河川水位との差(ただし、それが前記約一メートルであるか否かは別)の発生する可能性がないとの反証もないのである。

三  浸水の緩急度とその流水の方向

《証拠省略》によれば、徳田宅、吉冨宅、原告宅及び前記ガソリンスタンド附近の浸水は急激に増水したものであって、短時間のうちに前認定の最高浸水位に達したものであること、浸水しはじめて増水中、吉富宅附近では水は吉富宅の木田橋よりの厚東川方面から斜めに同宅方向へ流れ込んできたものであり、ガソリンスタンドでは水は国道の方に流れ、さらにほぼ北西方向に流れており、また支所附近では、その裏(厚東川方向)にある吉富宅の方からはまだガスの入っているプロパンガスボンベが流れてきたこと、原告が保管していた車両を駐車していた場所と前記倉庫の位置はいずれも国道よりも厚東川寄りにあり、原告宅などがある国道の北及び北西の土地よりも高いが、右車両は右駐車場所から徳田宅方向へ約二〇〇ないし三〇〇メートルも流され、右倉庫にあった品物(酒瓶を入れる箱)などもほぼ同方向へ流れたこと、以上の事実が認められる。

四  厚東川の水位の増勢

《証拠省略》によれば、当日一六時から二二時までの木田橋地点における厚東川の水位は、木田橋橋脚の水位標では、午後四時に三メートル、午後六時に四メートル、午後七時には四・五メートルとなり、二二時には、水が橋桁を洗う状態になっていて、右水位標の表示は最高位が四・五メートルまでしかなく、また流水が橋桁に当たって脹れることを考慮し、清水は実際に水のきている高さから三〇センチ下、すなわち右橋桁の下端が真実の水位であると判断し、目算でこれを五メートルとしたが、右橋桁の下端は正確には五・一一メートルであること、一九時から二二時までの右河川水の変化は、この三時間のうちに平均して増加したものではなく、二一時すぎごろから急激に増量したものであることが認められる。

五  厚東川のうち二俣瀬附近の概況

《証拠省略》によれば、ダムから二俣瀬附近にかけての厚東川は、ダムサイトを出てからはほぼ南東方向に走っているが、郷部落から国道二号線の通る二俣瀬橋それから木田橋にかけて南西方向に迂回し、次に述べる中洲を過ぎたあたりから南方向にやや曲るというように、概略逆S字型に流下していること、本件当時木田橋のすぐ下流には中洲があり、その範囲と標高は別紙9図記載のとおりであって、とりわけその高位部分が原告宅などのある右岸に片寄って、河川水の通水部分は左岸側に比べて極めて狭隘で、河床面は左岸より低くなっており、右中洲上には夏期であれば草が繁茂し、またその水際には灌木の生えていたことが認められる。

六  内水の発生と滞留

被告は、本件災害の発生原因は、多量の内水の発生とその滞留によるものであるとして、原告宅を含む地域が別紙7図のように盆地状となっており、内水が発生すれば同図記載の矢印の方向へそれが流れ移動すること、同地域には昭和四七年七月一一日の一六時から二四時までの間異常な豪雨、特に一七時から二三時までの間は連続一六二ミリメートルの雨量があったこと、同地域には厚東川への排水路(三本)があるが、多量の内水の発生に対して右排水路の排水能力が応じきれず内水が滞留し、他方厚東川の水位上昇により内水の排出を阻害し、さらに排水口において河川水と内水が拮抗するようになり、完全に排水が行なわれず、その後の雨水はすべて内水として滞留したことをその根拠としている。そして《証拠省略》及び前一認定の事実によれば、前記地域が盆地状をなしていることは認められる。

しかし、同地域に、被告が主張する時間に多量の降雨があったということについては、証人安浦正敏の証言によれば、同人がこれを計算し、同地域における降雨量を算出しているのであるが(《証拠省略》)、それは、ダム地点に降った雨量と同量の雨が右地域にも降ったとの仮定のもとになされているものであることが認められる。なるほど前一認定の事実によれば、ダムサイトと二俣瀬附近とは約二キロメートルしか離れておらず、これと《証拠省略》のみによれば、一応右仮定の成り立つ可能性を否定できないやに見えるが、いまこれを《証拠省略》により、中国地方あるいはこれに九州北東部を含む雨分布(《証拠省略》より詳細な、下関気象台が収集した一時間雨量の情報をもとに作成された山口県下の雨量分布図を検討してみると、被告が主張する時間帯における右降雨量の仮説はいまだ証明されていないといわざるをえない。また証人安浦正敏の証言によれば、安浦は右降雨量をもとに内水の発生と集水量の推移、排水口における水位を計算し、これと河川水の水位の上昇とを継続的に追跡して、当日一九時三〇分には河川水と内水の水位が等しくなり、排出口は閉塞され、以後は内水が排出されない状態になったとの結論を得ているのであるが(《証拠省略》)、これは、内水と河川水とが平行してその水位を上昇させ、内水の排水も河川水の流入もなかったとの仮定に立って得られたものであって、この仮定自体立証されておらず、排出口については二俣瀬交差点附近について検討しているのみで、他の二本の排出口について検討されているかは不明であるなど、右結論の確度は低いばかりか、そもそも、これが前記降雨量の仮定に基礎を置くものである以上、到底採用できるものではない。さらには被告が主張する内水原因論のみでは、これを裏付けうるとされる安浦の計算によっても内水の水位上昇速度は平均で一分間に約七ミリ程度ということになるが、これでは前三認定の急速な浸水と増量の状況を説明できず、流水の方向、内水貯留地区外にある車両等の移動をも合理的に根拠づけることはできない。

七  河川水の溢流

したがって前一ないし五に認定した厚東川と各家屋の位置関係、各家屋の浸水開始時と浸水位、浸水の緩急度と流水の方向、厚東川の水位の増加、二俣瀬附近の地理的状況を総合すると、本件浸水は厚東川の河川水の水位上昇によりこれが溢流したことによるものであること、原告宅附近に内水が科学的数値において零であったということはできないとしても、本件浸水の原因としては無視してよい程度のものであったことが推認できる。

第四河川水の溢流とダムからの放流

前記推認のとおり、厚東川の河川水の溢流は河川水の水位が上昇したことによるものであるが、この水位上昇をもたらした原因としてダムからの放流水の寄与があったか否かを他の原因の存否をも含めて検討してみる。

一  甲山川から厚東川への流入

先に第三の五で認定したように、厚東川は郷部落附近で南東から南西方向にその流れを変えているが、《証拠省略》によればその附近へ東から甲山川が厚東川へ流れ込んでいること、甲山川は厚東川に比較すれば小河川であるが、両側から山の迫った山間部を流れ下っている河川であることが認められ、《証拠省略》によれば、昭和四七年七月一一日の二二時前後には甲山川流域はダム地点と同一の雨量域にあって、時間雨量約五五ミリメートルの降雨量があり、多量の河川水が前記合流部で厚東川に流入したことが推認できる。

二  本件溢水時前後におけるダムからの放流量

1  本件ダムサイトから二俣瀬の前記中州附近までの放流水の到達時間がどの程度のものか直接、正確にこれを認めうる証拠はないが、前認定の事実によればダムサイトから右中洲までの距離は約二キロメートルであり、《証拠省略》によれば、ダムからの放流水が厚東川河口に達するには約二時間を要することが認められ、この距離は前出《証拠省略》によればダムサイトから右中洲までの距離の約八倍を下らないと認められるから、現実には下流域ほど川幅は広くなっており、河床勾配も緩かになっているからそのようなことはないが、仮に放流水が等速度で流下すると仮定すれば、ダムの放流水は約一七分で中洲に到達することとなる。そして第三の二において認定した事実を総合すると、厚東川の河川水の溢水が始ったのは七月一一日の二一時すぎからで、その後増加していったといえる。

2  そこで二一時以降の放流量をみてみると、当日の放流量の推移は後記認定のとおりで(別紙5図参照)、二一時一五分までダムのゲート開度を合計七・九メートルと一定に保っていたのを右時刻から逐次開け始め、ダムからの放流量は二一時三〇分には毎秒四六四・九六立方メートル、二二時には六四五・二四立方メートル、二二時三〇分には八一一・六〇立方メートル、二三時には八八七・六〇立方メートル、二三時三〇分には九二五・五〇立方メートルと急激に増加し、翌一一日二四時一五分以降はゲート開度を縮少していったものである。

3  ところで、《証拠省略》によれば、ダムから放流量が毎秒八五二立方メートルのとき木田橋地点における水位は四・三五メートルになることが認められ、これと右2認定の事実、さらには後記認定の二一時三〇分までの放流量とを併せ考量すると、二一時一五分までゲートの開度を抑制していたとはいえダムからは毎秒三五〇立方メートル程度の放流がなされて、それが厚東川を流下しているところへ、前記増放流が逐次行なわれたのであるから、どの程度となるかは証明されていないが、放流量が毎秒八五二立方メートルに達するまでもなく、木田橋地点の水位が四・三五メートル以上に上昇することが考えられる。それに前記甲山川からの流入量が加われば、さらに二俣瀬附近における水位上昇が加速されることは明らかである。そして《証拠省略》によれば、木田橋橋脚地点での水位四・五メートルは標高一三・〇一九メートルに当たり、木田橋から厚東川に沿って吉冨宅の前を通り二俣瀬交差点に至る道は、前認定のように標高が一三メートルである右交差点に向かって下り勾配であるところ、右道が当時厚東川の堤防様の状況にあり、その道のうち西方から厚東川に通ずる排水路上の部分は標高一三・六メートルであることが認められるから、右交差点と右水位は殆んど同じ高さであり、右道路部分と右水位との差は約五・八センチメートルに過ぎないこととなり、これと先に述べたところから、毎秒八五二立方メートルの放流が行なわれるまでに右交差点附近はもとより、吉冨宅附近において厚東川の河川水が溢流する可能性は極めて高かったものといわなければならない。

三  二俣瀬の中洲

《証拠省略》はダムからの放流量と木田橋地点における水位に関するものであるが、原告主張の写真であることに争いのない《証拠省略》の①、③、⑤の写真により認められるように同地点附近には直接水流を妨げるものがないのに対し、右橋のすぐ下流には前認定のような中洲があり、厚東川の蛇行もあるから、木田橋附近から流れてきた流水が右中洲によって、厚東川の右岸(原告宅寄り)においてその水位を押し上げられる可能性は、この水位の上昇した流水の一部が左岸側へ流れることを考慮に入れても、なお否定できない。

四  本件溢流と放流の関係

以上において認定した事実と判断に基づけば、本件溢水は、ダムからの放流、甲山川からの河川水の流入と二俣瀬の中洲の存在によって木田橋地点及びそのすぐ下流の厚東川の水位が上昇したことによるものというべきであり、ダムからの放流が右水位上昇に作用していることは、証人清水実(第一回)、同萬屋久文の各証言と原告本人尋問の結果により認められるように、時間は必ずしも正確とはいえないが河川水の水位の下りはじめたのが七月一一日の二四時ごろであり、国道や原告宅の浸水の引きはじめたのが右二四時ないし翌一二日の一時ごろであることと前二認定のように同日零時一五分からはダムの放流ゲートの開度を逐次縮少していったことが符合することによっても裏づけられるものである。

第五国家賠償法二条一項所定の瑕疵

一  原告は、本件災害がダムからの急激で多量の放流による溢水に原因するものであって、右放流は当日(昭和四七年七月一一日)のダム放流ゲートの誤った操作、ダムの洪水調節容量の不足に起因するものであるとして、これを請求原因五記載のとおり具体的に主張するところ、被告は人がダムのゲートを操作する過程における過誤というような運営上の過誤は、国家賠償法二条一項がいうところの「管理の瑕疵」には該当しないと主張する。

しかし、国家賠償法二条一項のいう「営造物の設置、管理の瑕疵」とは営造物が本来有すべき安全性を欠くことをいうが、それは営造物を構成する物的施設の物理的、外形的な欠陥ないし不備によって安全性を欠く場合にとどまらず、営造物の供用目的に沿った利用の態様、程度が一程の限度を超えたために安全性を欠くに至った場合をも含むものと解すべきであるから(最高裁昭和五六年一二月一六日大法廷判決参照)、右被告の見解は採用できない。

二  そして「瑕疵」について、右解釈に即して、ダムからの本件放流の程度、態様や洪水調節容量の不足が本件ダムの設置、管理の瑕疵に当たるか否かを検討するには、ダムの管理に関する法令の趣旨、ダム設置・利用の目的に鑑みて、ダムの構造、特に放流装置と調節容量、ダム上流の出水量・ダムへの流入量の各観測・予測体制、この観測・予測及び放流のための機器や施設の整備、要員の確保、放流水が流下する下流域の地理的状況・物理的現象のもとで、これが把握などに欠陥や不備があったか否か、さらには本件災害発生当日前後におけるダム上下流域における気象条件、特に降雨量、上流の出水量、ダムへの流入量とそれらの変動、右各量の観測・予測の実際、放流あるいは放流抑制の必要性、具体的な放流量の決定と放流のための操作などの存否、程度あるいは適否などを総合的に判断して決しなければならないものである。そこで、以下右の諸点につき順次検討する。

第六ダム管理の瑕疵

一  厚東川とダムの位置、目的、構造

1  《証拠省略》によれば、厚東川は河川法上の二級河川であり、山口県美祢郡秋芳町にその源を発して南流し、宇部市の平野部を貫流して瀬戸内海に注いでいて、その流路延長は四一キロメートル、河川勾配はダムより上流一〇キロメートルが平均二一五分の一、ダムから河口までが平均七五〇分の一で、ダムサイトから河口までのうち、その上流部はやや急流であるが、中、下流部は急流に乏しく曲折がかなり多いこと、厚東川の最大の支流としては厚東川に平行して南下しダム附近で合流し、流路状況は厚東川に類似する、流路延長二八キロメートルの大田川があること、厚東川の全流域面積は三八七・一平方キロメートルで、うちその約八四パーセントに当たる三二四平方キロメートルがダムの集水面積であること、ダムは右のような厚東川の下流の唯一の狭窄部である山口県宇部市二俣瀬区木田字落畑(所在地については当事者間に争いがない)に設置されていることが認められる(以上別紙3図参照)。

2  《証拠省略》によれば、本件ダムは宇部市、小野田市において需要のある工業用水、上水道用水を確保するために、昭和一四年建設が計画され、さらにかんがい用水の補給も目的に加えて翌一五年に建設に着手されたが、第二次世界大戦のため遅れ、その後建設目的に発電を追加して昭和二五年に完成したこと、右建設計画時において、厳密な計画的洪水調節は企図されていないが、建設予定地の下流域にすでに水害被害の発生のあることから、ダムによってその上流域(これを厚東川流域の約八五パーセントとしている。前1参照)の降雨を貯留抑制し、ダムの門扉の操作によって下流の洪水時流量の調節を行うことがダムの機能として挙げられていたこと、そして新たな河川法の制定により昭和四二年四月、計画的洪水調節を重要な目的とし、調節方式として予備放流方式を採用したものであることが認められる。

3  そして、《証拠省略》によれば、ダムは重力式コンクリートダムで、その諸元、構造、貯水池の容量は別紙1表及び2図のとおりであることが認められる。

二  ダムの洪水調節機能と調節の仕組

1  本件ダムにおいて、洪水調節のため昭和四二年四月予備放流方式を採用したことは前述のとおりであるが、《証拠省略》によれば、本件ダムにおいては、操作規則によって貯水池の常時満水位を標高三九メートルとし(規則六条)、洪水時にはこの満水位を標高三九・二メートルとするが、水位は洪水時にもこれ以上上昇させてはならないこととされ(同七条)、洪水とは流水の貯水池への流入量が毎秒三〇〇立方メートル以上である場合をいい(同三条)、洪水調節の必要が認められ、その時の水位が標高三八メートルをこえているときは、放流してあらかじめこれを三八メートル(予備放流水位)にまで下げなければならず(同三条、一五条)、そのうえで流入量が毎秒三〇〇立方メートルをこえると、変動する流入量のうち毎秒三〇〇立方メートルをこえる量の一四・八パーセントを貯留して、その余を放流し、流入量が最大となったのちは、毎秒{(最大流入量-300)×0.852+300}立方メートルの一定量を放流し、その余を貯留して、これを流入量が右一定量に減少するまで続け、また流入量が最大に達するまでに、放流量が毎秒一四五〇立方メートル(このときの流入量は毎秒一六四九・七立方メートルとなる)になれば、流入量が毎秒一四五〇立方メートルになるまで、右毎秒一四五〇立方メートルという一定量を放流することとされ(同一六条)、前記予備放流制度の導入と同時に、ダム上流河川の計画高水量(これは同時に上流からダムへの最大流入量とされた)を毎秒一六五〇立方メートルとしたことが認められる。

これを要するに、ダムでは洪水調節の必要の生じた場合、貯水池の水位を三八メートルまで下げて、これと洪水満水位三九・二メートルまでの差一・二メートルの容量である二八八万六〇〇〇立方メートルを空けて確保し、この容量を利用して洪水調節を行ない(規則一〇条)、いま仮に貯水池への流入量が毎秒三〇〇立方メートルをこえて増加する場合を想定すると、逐次貯留量、放流量ともに増加し、流入量が毎秒一六五〇立方メートルをこえると放流量は毎秒一四五〇立方メートルに固定し、そのため貯留量はさらに増加するもので、これは被告のいう一定率一定量調節方式に当たるものである。

2  そこで、具体的な放流の仕組についてみると、《証拠省略》によれば、ダムサイトでは、その下部に工業用水、発電用水の各取水管があって、そこからの取水のほか、洪水調節用ゲートが八門備えられ、ここから放流すること、ゲートは右岸側から左岩側へ順次一号ないし八号ゲートと呼称されており、これは電動式であって、モーターはゲート二門につき一台計四台備えられており(一台のモーターで二門同時に開閉することはできない)、一号、二号、七号、八号のゲートの操作はダム管理事務所内から遠隔操作をし、三号ないし四号のゲートも同様の方法により操作できないことはないが、目盛を細かく切っていないため正確な操作が困難なところから、洪水時には歯車を数えて開度を確認をしつつ開閉する必要があって、二名の職員が堰堤上で操作していたこと、放流量は流入量予測に基づきダム管理事務所長が決定し、これが決まると事務所に備え付けてあるゲート放流早見表によって、右放流量に見合うゲートの開度が即座に判明するようになっていたこと、ゲートの開閉は、下流の急激な水位の変動や不均等な放流がゲートに与える悪影響を考慮して、開閉の順序は四号から始め、ついで五号、三号、六号というように中央部から左右交互に開け、その一門の一回の開度は一メートル以内とされていたこと、開閉に要する時間は一メートル開くのに約三分三〇秒(一分間に三〇センチメートルの速度で開く)かかり、そして次のゲートを開けるまでには一分間の間隔を置くことになっていたことが認められる。

三  ダムの観測・予測体制

1  ダムが洪水時に流入量を適切に調節して、下流域における水害などの発生を防止するためにダム施設を機能させるには、この施設や機器の整備、要員の配置や必要な技術、能力の向上を図ることはもちろんであるが、同時に可能な限り早期にダムへの流入量とその変動を正確に予測しうるよう、予め上流域の地形、上流河川の構造など、降雨時における上流河川への流入量と時間、上流河川からダムへの流入時間などに作用する諸条件について調査し、資料を収集し、知見を補充しておき、現実の降雨時には、上流域の降雨量、上流河川の水位などの観測と右資料などを総合的に判断することが求められているのであり、他方下流域の災害発生を防止する以上、やはり前もって下流域の地理的、物理的条件、災害発生の可能性のある場所、放流量と水害発生との相関関係などについて調査、検討し、実際の放流時には下流河川の水位の変動を追跡して、放流調節が適切に行なわれるようにしていなければならないことはいうまでもない。

河川法四五条においても、ダムの操作が河川の管理上適切に行なわれることを確保するため観測施設を設けて、水位、流量、雨量などの観測をすることを義務づけており、後述のとおり本件ダムのように協議により河川管理者がダムの維持管理をする兼用工作物にあっては右四五条の適用は除外されている(同法五六条)もののそれは事実上河川管理者に右義務が負担されているからにすぎない。また《証拠省略》によれば、同法四六条のダムの操作状況の通報等(これも同法五六条により本件ダムには適用除外となっている)についても、建設省は昭和四一年八月、上流河川の水位、流量、下流河川の水位の上昇をみつめながら貯水池からの放流を行なうために、ダム下流河川の水位を一時間ごとに記録するよう指導していたことが認められる。

2  《証拠省略》によれば、本件災害発生当時、ダム上流における観測施設としては桂木山、男岳、綾木局、岩永局にそれぞれ雨量観測施設が、右綾木局、岩永局にそれぞれ水位観測施設があって、観測結果は一時間毎に管理事務所で知ることができるようになっており、ダムサイトには雨量と水位の観測施設が、ダムの下流では持世寺局に水位観測施設がそれぞれあり、これらの位置は別紙3図のとおりであること、ダムの下流にある木田橋地点では、清水実が厚東川の河川管理者から水位観測を委託されていたことが認められる。しかし、木田橋における観測結果を逐次ダム管理事務所に報告し、同所でこれを放流量決定の参考にするような体制を整えていたこと、前認定の地形及び中洲の状況からは、この中洲が河川水の内滑な流れを阻害し、水位上昇の原因となる可能性があるが、河川管理者においてダムからの放流量と同地域における水位との関係につき調査したり、資料収集をしたこと、右地域の水位上昇に寄与したと被告が主張する甲山川流域における雨量あるいは同河川の水位と厚東川への流入量の関係などについても調査などをしていたことについてはこれを認める何らの証拠はない。むしろ前記松本と証人東谷圭一郎の証言によれば木田橋附近及び甲山川については右の点に関する資料を持っていなかったことが認められ、これによれば、ダムの下流域における水位その他の状況を勘案しながら適切な放流をする体制には、なお不備があったといわなければならない。

3  右認定の各観測施設における観測結果からダムへの流入量と流入時間を予測する手法については、《証拠省略》によれば、単純に貯水池の水位の増加を測量して流入量を算定する方法、ダム上流河川において観測した流量あるいは水位とそれが貯水池まで到達する時間から予測する方法(水位法又はH―Q法)、上流において観測した降雨量から、貯留関数法、単位図法などによって流入量を予測する方法(雨量法)、経験的に最大流入量、洪水総量などを推定して、貯水池の実測流入量から、流入波形を三角形とみなして、将来の流入量を予測する方法(三角パターン法)があるが、そのうち雨量法は事前に計算式の定数項につきあらかじめ検討されていたとしても、手作業では刻々変動する雨量、とその降雨地域から総雨量を算出し(テイーセン法を用いる)、流域流出量、ダムへの時系的流入量を予測する作業に時間がかかりすぎて、洪水時などには右変動に十分対応できる方法ではないこと、前記建設省の指導においても予測の方法としてはH―Q法、三角パターン法が挙げられていること、本件ダムでは洪水警戒体制をとると気象水象の観測、情報収集を行ない、最大流入量、洪水総量、洪水継続時間及び流入量の時間的変化を予測することとなっており(規則一四条)、前記方法のうち三角パターン法を基本にして、これにH―Q法、ダム地点の実測流入量や雨量を加味して、流入量予測を行なっていたこと、この方法を採用していること自体は何ら不適切とはいえないことが認められる。

四  ダム管理の人的体制など

《証拠省略》によれば、本件ダムは河川法一七条所定の兼用工作物であり、同法一項の協議により、その管理は厚東川の河川管理者(河川法一〇条)である山口県知事が行なうこととなっていたこと、山口県知事は同法四七条により厚東川ダム操作規則を定め、これに基づき洪水時を含めダムの操作が行なわれることとなっていたこと、ダムの管理事務は山口県知事のもとにあって、土木建築部河川開発課が担当し、現地には厚東川ダム管理事務所が設置され、本件災害発生当時所長を含め五名(うち四名が技術吏員、一名が機械操作員)の者の配置されていたことが認められる。

五  昭和四七年七月九日ないし一一日の気象条件、特に降雨状況

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

すなわち、朝鮮半島南部まで北上していた梅雨前線は昭和四七年七月九日午後南下しはじめ、これに伴って湿域は九州西方から山陰にかけて東西に幅広く拡がり、この中で強い雨雲が山口県北西部及び北部を通り、同地方に断続的で強い雨を降らせた。その後梅雨前線はわずかに南下し、一〇日から一二日まで長時間九州北部から瀬戸内海沿岸に沿って東西にのび停滞した。この間前線活動はかなり活発で、この前線上をメソ低気圧がつぎつぎに東進した。このため山口県では九日九時から一〇日九時まで県の北西部を中心に日雨量一〇〇ミリ以上となり、一〇日九時から一一日九時の間では県の北西部では一五〇ミリ、山口、防府方面でも一〇〇ミリ以上の日雨量となった。さらに一一日九時から一二日九時にかけては南方洋上にある台風六号、七号、八号の間接的影響を受けて前線活動はとくに活溌となり、全県的に降水量は多く、県の北東部から南西部にかけて日雨量は二〇〇ないし二五〇ミリ以上の豪雨となった。このうち一一日一八時のレーダー観測によると九州西岸、平戸市から北九州・下関及び山口県北東部を結ぶ上空には幅数一〇キロメートルの厚い帯状の雨雲が停滞し、同日二一時の観測では県の北部と南西部から北東部にかけて雨雲が強化され、この地域に集中的な大雨を降らせ、この大雨は全県的には一二日二四時まで続き、その後は各地とも時々小雨が降る程度に落ち着いた。これら気象状況の特徴としては、梅雨前線の南北振動の幅が小さく、長時間山口県附近に停滞したこと、一一日は連続的な厚い雨雲に被れたこと、雨勢は周期的に変動し、雨量が多かったことが挙げられる。このような気象状況下にあって下関地方気象台は、九日一六時一五分に大雨雷雨波浪注意報を、二一時三〇分に大雨洪水警報・雷雨波浪注意報を発令し、一〇日二〇時二〇分には右警報による降雨量見通しを増量更新した大雨洪水警報を出した。

他方ダム管理事務所では、桂木山を除く前記各雨量観測所における降雨量を把握したが、それは別紙3表、4表の降雨量欄のとおりで、これによれば、各観測所附近では一一日一六時ごろから二三時ごろまでの間にほぼ連続的に多量の降雨のあったことがわかる。なお桂木山では雨量計が壊れ、一一日二時以降は測定できなかったものである。

六  ダムへの予測流入量と現実の流入量

《証拠省略》によれば、前認定のように下関地方気象台が最初の大雨雷雨波浪注意報を発令した九日一六時一五分ごろ、ダム管理事務所長は、規則一四条が定める洪水警戒体制をとることとし、遅くとも一一日二〇時以降、上流域からダムへの流入量とその時間的変化の予測をし、その方法は前認定のように三角パターン法とH―Q法により、これに観測した雨量、ダムにおける雨量と水位の変動をも加味して総合的に予測したこと、すなわち、H―Q法では岩永、綾木の各観測所における水位の観測結果から、岩永綾木水位流量曲線により、右各観測地点における観測時の流量を求め、右各地点からダムへの流水の到達時間については、上流河川の調査や計算結果によるものではないが、それまでの経験上約二時間としていたことから、二時間後の流入量を予測し、これを二回行なったのちは右予測量と現実の流入量から流入倍率を求め、右曲線によりわかる流量にこの流入倍率を乗じて各一時間後の流入量予測を行ない、三角パターン法では、三角形の頂点に当たる流量を計画高水量である毎秒一六五〇立方メートルとして作図して予測し、これらの詳細と予測流入量は、別紙5、6表及び5図のとおりであったこと、これに対し、ダムへの現実の流入量とその推移は別紙4表の2、3のとおりで、これを図示すれば別紙5図の流入量線となること、この予測量と実際の量とを比較するとH―Q法による予測では、一一日二〇時から二三時までは実際の流入量よりやや少ない量であるが、右流入量の変化に殆んど沿った量を予測した結果となっているが、二三時から二四時の間は実際の流入量よりはるかに大きい流入量の増加のあることを予測した結果となっていること、これは三角パターン法による予測でも二三時以降増量傾向にあるものと予測していること、また管理事務所長も二〇時三〇分ごろにはこれからの流入量が毎秒一〇〇〇立方メートル以上となると予想していたことが認められる。

七  流入量予測の当否

そこで、右認定のように一一日二三時から二四時の間に、予測流入量と実測流入量との間に大きな隔りがあるので、右予測の当否について検討するに、《証拠省略》によれば、三角パターン法はもとより、管理事務所において予測方法として用いられたH―Q法よりさらに精度の高い流入量予測方法である単位図法によって、ダムサイト、男岳、綾木、岩永の各観測地点における雨量を基に予測流入量を試算し、これを図示すれば別紙6図のようになり、一一日二二時までの右方法による予測流入量と実測流入量との間にあまり差がないが、やはり二二時から二四時にかけて流入量が急激に増加の一途を辿り、流入量の最大予測値は二四時に毎秒一二六七立方メートルとなるものと予測されていること、これによれば、前述のH―Q法による右値がやはり同時刻に毎秒一二四五立方メートル、三角パターン法では毎秒一〇七二立方メートルとなっていることと右単位図法による試算予測値との間には余りに差のないこと、さらに前記各雨量観測点における観測雨量は岩永観測所を除いていずれも一一日二〇時以後は増量傾向にあり、とりわけダムサイトでは二二時に時間雨量が最大の五五・五ミリメートルが記録されているので、前述の気象状況も含めて、なお右傾向が続くものと予想しうる状況にあり、男岳、綾木、岩永の各観測所においては二二時に雨量は大きく減ったものの、二三時にはまた増量に転じていること、予測結果と実測結果とが前認定のように大きく異るのは、上流域はもちろんダムサイトにおいても二四時以降、前記予想に反して突如として降雨量が極端に減少したことによるものであること、なお前認定のように管理事務所では岩永、綾木の各水位観測所からダムまでの河川水の流下時間を二時間とし、この時間は上流河川について調査、計算した結果によるものではなく、いわば勘によるもので、右時間の決め方は疎漏というべきであるが、その後の試算結果によれば、この時間は岩永観測所からは約一・五時間、綾木観測所からは約一・七時間であって、結果として、前記H―Q法による予測を大きく誤らせる要素とはなっていないことが認められる。これらの事実と一般に急激でかつ変量の大きい気象条件の変化を事前に予知することが困難であることからすると、管理事務所で行なわれた前記ダムへの流入量の予測に不適切なところがあったとはいえない。

なお、予測と実測との間に大きな差が出た原因として、右認定のもののほかに、証人東谷圭一郎、同松永定男は上流域において河川堤防が破堤し、流水がその流域に流出したこともあると供述し、被告は《証拠省略》を提出するが、右各供述及び書証によっても、いま直ちに右破堤を右原因のうちに数えるまでには至らないものである。

八  洪水調節のために行なわれた放流の実際

《証拠省略》によれば、次の事実が認められる。

1  下関地方気象台が九日一六時一五分大雨雷雨波浪注意報を、二一時三〇分大雨洪水警報などを発令したことは、先に述べたとおりであるが、その後もダムサイトや各観測地点における雨量は僅かであった。しかし管理事務所は九日一六時すぎには規則一四条所定の洪水警戒体制に入り(前認定)、ついで一〇日六時には、そのときの貯水池の水位であった標高三八・二六メートルを予備放流水位である標高三八メートルにまで下げるべく、予備放流を開始し、同日二四時に目的の水位である標高三七・九四メートルになった。この間における各観測地点における雨量は僅少であり、上流河川の水位もほぼ一定であって、ダムへの流入量も当日の二〇時までは増量傾向にあるというものの、その増加は大きなものではなかった。そして右予備放流のために開かれたゲートの開度は概ね各門合計一メートルから四メートルであって、これらの詳細は別紙4表の1、2のとおりである。

2  右のように、予備放流水位にまで、貯水池の水位を下げたのちは、この水位を維持するため、ダムへの流入量に見合った量に近い水量を放流し、この状態は約一八時間続き、その間の流入量は遍増してゆき、一一日一八時には流入量が規則三条で定める洪水量である毎秒三〇〇立方メートルを超えるに至ったことから、規則一六条により洪水調節をすることとなり、これを実施した。この洪水調節における放流量の決定は、実測流入量や流入予測などに基づき行ない、決定に要する時間は一〇ないし一五分あればよいが、本件の場合は実際の各放流実施の三〇分前には管理事務所長が決定した。

3  ところで、洪水調節は前認定のように規則一六条本文各号に定める量を放流するのが原則であるが、気象、水象その他の状況によって特に必要と認める場合にはその放流量は右本文の所定量によらないことができることとなっている(同条但書)。そして右のとおり、一一日一八時から右本文により洪水調節を続けたのでありその後も流入量は増え続けたのであるから、右本文によれば、放流量もそれに見合って増加させるべきであるが、当日の宇部港における満潮時が二一時五四分であることを知っていた管理事務所では、厚東川下流の感潮区間においてダムからの放流水と海水の潮流などにより河川水位が異常に上昇し、溢水等の被害の発生することを避けるため、右満潮時間とダムサイトから厚東川河口までの流水の到達時間と考えていた一・五時間ないし二時間を考慮して、一九時から規則一六条但書により放流量を増すことを抑制して、これを一定に保つべく、ゲートの開度を各門合計七・九メートルに維持した。その結果一九時から再度ゲートを開き始めた二一時一五分の直前である二一時までの間のゲートからの平均放流量は毎秒約三六〇立方メートルであり、規則一六条本文により操作して放流すれば右時間帯における平均放流量は毎秒約四一八立方メートルであるから、平均毎秒約五八立方メートル放流量を制限し、一九時から右二一時一五分までの間に抑制された水量は約四七万立方メートル、これを貯水池の標高三八メートル以上の水位でみると概略二〇センチメートル分に当たる。現実には貯水池の水位は前記三七・九四メートルより約四〇センチメートル上昇し、二一時には三八・三一メートルになっており、二一時前には規則一六条本文の操作をした場合の水位を突破し、さらに上昇傾向にあったが、次の述べるその後の放流により二三時三〇分ごろ同一水位に戻っている。

4  このようにして放流抑制がなされていたが、二〇時現在における三角パターン法による流入量予測では、流入量は増加してゆき、一二日一時には毎秒一〇〇〇立方メートルを越えるものと予測され、二一時現在の予測では二四時に毎秒一〇〇〇立方メートルを越えるとの結果が得られたこと、前認定のように放流抑制により洪水調節容量である貯水池の水位標高三八メートルから三九・二メートルまでの一・二メートルのうちその約四分の一を既に消化していること、したがってこのまま放流抑制を続けることはできず、時期を失すれば予測された流入量に対応できなくなることから、放流水の河口への前記到達時間も考え併せて、管理事務所長は二一時一五分からゲートの開度を拡げることを決定し、これを二・一メートル拡げ各門合計一〇メートルとした。その後も流入量は別紙5、6表のとおり逐次増加するものと予測されたため、これらの予測に基づいて次々にゲート開度を拡げていったところ、二三時には予測に反して貯水池の水位は上がらず、三角パターン法による二三時現在の予測流入量より実測流入量が減少しており、H―Q法ではまだ減少傾向になったとは判断できる状況ではないものの、他方貯水池の水位は標高三八・七二メートルに達していることもあって、二三時三〇分ゲートの開度を一メートル閉じ、その後は流入量の減少傾向が予測により判明したことから順次ゲート開度を減少していったもので、詳細は別紙4表の2、3及び5図のとおりである。

5  放流の経過は以上に認定のとおりであるが、この放流の特徴としては、一九時から二一時一五分までの放流抑制とその後二三時三〇分までの間の急激な増放流を指摘することができる。とくに後者については、二一時一五分から二三時三〇分までの二時間一五分の間に、それぞれ前認定のような時間を要してゲート操作を行なったのであるが、七回ゲートを拡張して、開度を各門合計七・九メートルから最終的には二一メートルにまで拡げた。放流量は抑制により二一時一五分までは規則一六条本文による放流量より少なく、その差は次第に大きくなり、ゲート拡張を再開する二一時一五分の直前では一八時におけるダムへの流入量にほぼ匹敵する毎秒二六六・六六立方メートルにも達していたが、二一時一五分ゲート拡張を開始してからは次々と放流量を増加させてゆき、二二時すぎには規則一六条本文による放流量以上を放流するようになり、その差はさらに拡がり、二三時一五分には規則一六条本文による放流量を越える放流量は毎秒一〇八・三四立方メートルになっている。もとより被告はこの放流操作は前記規則一六条但書により行なわれたものであると主張している。

九  放流操作の当否

第三(本件災害の発生と河川水の溢流)、第四(河川水の溢流とダムからの放流)及び右八(洪水調節のために行なわれた放流の実際)において認定した各事実を総合すると、一一日二一時から二三時三〇分までの間に行なわれた急激な放流量の増加により、厚東川下流において増水し、他方甲山川からの流入量も加わり、これらの河川水が木田橋下流の中洲に流下を阻害されたこともあって、厚東川右岸において水位が上昇し、溢流を起こしたものであること、右急激な放流量の増加は満潮を考慮して放流抑制したことにより、洪水調節容量の利用幅を狭ばめ、折から今後急激に多量の流入量が予測されたことから、その後の流入量に対処しつつ、急きょ右容量の回復ないしは規則一六条本文操作の場合と同一の貯水池水位を回復あるいは維持しようとして放流操作が行なわれたことによるものであることが推認できる。したがって、放流操作の当否を判断するに当たっては右の放流抑制の当否、ついで急激な増放流をしたことの当否にそれぞれ焦点を合わせて検討する(もちろん原告もこれを主張している)。

1  放流抑制が、満潮時の放流量増加によって、感潮区間に沿った厚東川下流域に溢水等の災害の発生することを避けるため、管理事務所長が規則一六条但書により一九時から放流抑制することを決定し、これを実施したことは、先に認定したところであるが、証人松本栄治、同松永定男の証言によれば、右決定に際して考慮されたことは、右満潮時が二一時五四分であることと、ダムからの放流水が厚東川河口に到達する時間が概ね一・五時間ないし二時間であり、満潮時の前後各一・五時間の範囲内に放流水が増加して到達しないようにすれば、満潮と放流水の競合による災害の発生が避けられると考えていたことのみであって、ダム管理の衝に当たるものにおいて、右二一時五四分における満潮の潮位は知らず、右到達時間も単に経験により知っていたという程度のものにすぎなかったことが認められ、いわんや、満潮時前後における放流によってどの程度の水位上昇の可能性があるかについて、あらかじめ潮位や放流量などの変数毎の試算あるいは計算のできる資料を収集していたとか、海水と放流水との競合が起こるにしても、満潮時を過ぎて干き出してからは徐々に水位上昇の可能性は薄くなるものと考えられるが、放流の抑制時間を満潮の前後いずれも一・五時間としたことについて科学的な検討を加えていたこと、どれだけの水位で感潮帯下流域のどの地点に水害の発生が起きるかということについての調査などを行なっていたことを認めうる証拠はない。さらに、放流抑制を決定するについて、被告が主張するように一六時河口附近の市街地の浸水により宇部市災害対策本部が設けられたことも考慮に入れられていたことを認めうる証拠もない。してみると本件の放流抑制とその内容の決定方法は杜撰なものであったといわなければならない。

しかし、《証拠省略》によれば、二一時にダムから規則一六条本文により放流した場合と本件放流(抑制)の場合とで、下流域にとのような水位差が生じるかをみてみると、ダムからの放流水が河口に達するには約二時間を要するので、右水位差は河口附近では二三時における水位差ということになり、また満潮時の前後約一・五時間程度は潮位が水位上昇に影響を与えるものと考えられ、一一日の満潮時は前認定のとおり二一時五四分であるから、二三時はまだ右影響を受ける可能性のある時間であって、厚東川下流の感潮区間内にある沖ノ旦橋と潮留メ井堰との間の二三時における右水位差は四五センチメートルないし七一センチメートルとなること、試算の結果この潮留メ井堰の二三時における水位は、規則一六条本文の放流の場合は標高約五・六七メートル、本件放流(抑制)の場合は五・〇五メートルとなる結果が得られること、但し、右水位差及び水位の試算で行なわれた不等流計算において用いられた計算対象流量は計算時におけるダムからの放流量とその他にダムから計算地点までの区間で厚東川に流入した量の和とされ、後者は計算時におけるダムへの流入量に右区間流域とダム上流域の面積比を乗じたものとしており、これは右両流域における雨量が同一であるとの前提のもとに成り立つものであるが、右計算時においては右区間流域の雨量は場所(ダムサイトに近い山間部)によってはダム及びその上流域のそれに近いものもあるが、概略的に見て、相当の雨量はあるものの、ダム及び上流域の雨量より少ない雨量の地域も相当あるので右前提には疑問があること、しかし他方当日の満潮時である二一時五四分に近い二二時における潮位は二三時の潮位よりも約四三センチメートル高いこと、潮留メ井堰の直ぐ下流の左岸の地盤高は標高四・七五メートル、右岸の地盤高は七・〇五メートルであること(当時同所における堤防などの水防設備の存否は不明)が認められ、右認定の放流水の到達時間、感潮時間水位差、水位、潮位及び地盤高を総合すれば、右認定の試算の確度、計算誤差、さらには《証拠省略》により認められるように前記二三時と満潮に近い二二時の各二時間前である二一時と二〇時の実際の放流量に差のあること(二〇時のときが二一時のときより毎秒九・五四立方メートル少ない)を考慮に入れても、満潮時前後において放流抑制をせず規則一六条本文による放流をしておれば、少なくとも潮留メ井堰附近においては溢水をする可能性が極めて高かったことが推認でき、放流抑制の時間は不確定要素が含まれるだけに、満潮の前後約一・五時間程度としたことは相当であったということができる。してみると一九時から二一時一五分までの間に前認定の放流抑制をしたことが適切さに欠けるものであったということはできず、他にこれを認めうる証拠はない。

2  ダムからの放流、とりわけ本件ダムのように下流の洪水調節をも目的とするダムから放流が下流の地形、水位、気象、潮位などの条件を勘案しつつ、下流域に水害等の起こることのないようなされなければならないことはいうまでもなく、本件ダムにおいても規則や行政指導によりこのことが考慮されていたことは既に認定したとおりであり、現に前述のとおり満潮を念頭において放流抑制をしたこともその一例である。したがって本件放流が結果として規則一六条本文による放流の場合とその量において殆んど差のないことは、何ら本件放流を正当化するものではない。そして証人松本栄治、同東谷圭一郎の証言によれば、ダム管理の担当者らは、前第四で認定したようなダムから二俣瀬地区までの河川の状況、中洲の当時の状況の概略、甲山川から相当多くの流入があること、前五で認定した気象の推移を知り、管理事務所長はダムから毎秒二五〇立方メートルの放流をすれば右中洲は水没するとの認識をしており、河川開発課長は毎秒八〇〇ないし一〇〇〇立方メートルの放流をすれば木田橋附近(右中洲に至る前)で溢水の危険性があると考えていたことが認められ、また《証拠省略》によれば平均放流量は二二時には毎秒六五七・七〇立方メートル、二二時一五分には毎秒七四七・九七立方メートル、二二時三〇分には毎秒八二五・八三立方メートル、二二時四五分には毎秒九〇一・八三立方メートルであり、以後二四時まで毎秒九〇〇立方メートル台の放流が行なわれていることが認められ、これらの事実によれば所長は右放流量に甲山川の流入量(東谷の供述によれば当時毎秒二〇〇立方メートルとのことであるが)が加わり、さらに中洲に水流が阻害されて、木田橋附近から中洲あたりの厚東川左岸で溢水の発生することを予見できたものであり、また予見していたことが推認できる。

しかし、前認定のような気象状況と二一時以降の将来の流入量の予測値加えて放流抑制によって予定の洪水調節容量の約四分の一を既に使っており、証人東谷圭一郎の証言によれば、右容量のない状態で多量の流入量を迎えることはダム施設にとっても危険の大きいことが認められるから、予測された二四時ごろの流入量約毎秒一〇〇〇立方メートルに対処しうるためには、可能な限り右残容量をそれまでに使いきってしまわない措置が必要であったことは是認できるところであり、それ以外の方法もなかったものである。《証拠省略》によれば実際にもゲート再開を始めた二一時一五分から二三時四五分までの貯水池の水位は、前認定の増放流により標高三八・七〇メートルから三八・七二メートル、残容量水位は四八ないし五〇センチメートルに保たれていることが認められる。そうすると前認定のように不適切とはいえない流入量予測のもとで、この来るべき流入量に対応するには前認定のような経過の放流をすることは避けられず、したがって前記溢水の発生についてはダムの操作担当者において回避可能性がなかったものというべきである。

3  さらに原告は二四時前後にあってはダムからの最大放流量は同時刻のダムへの最大流入量を毎秒三立方メートル上回っており、二四時には放流量は流入量より毎秒三一立方メートル超過していたことも本件溢水の原因であると主張し、《証拠省略》によれば右過放流のあったこと(但し放流量と流入量の差は別)が認められるが、前第四で認定したように本件浸水は二四時ごろには干きはじめたのであるから、右過放流と特に本件浸水との間に直ちに因果関係があるとするには躊躇せざるをえないし、右因果関係を肯認できるとしても、先に認定したように、予測に反して、実測流入量が減少してきたこともあって、二三時三〇分からはゲートの開度を狭ばめ、放流量を減少させはじめたのであるが、証人東谷圭一郎の証言によれば、流入量が減少傾向にある状況での放流量の操作は減少の度合を見ながら行なうためどうしても後追い操作とならざるをえず、したがって原告が主張する程度の過放流は避け難いことが認められ、このことは《証拠省略》により認められるとおり流入量減少時は規則一六条本文による放流をしても過放流となっていることによっても裏付けられるものである。

一〇  洪水調節容量の不足――制限水位制

先に認定したように二一時一五分からの増放流の一因は、それより前に行なった放流抑制によって、洪水調節容量を一部使用していたことにあるが、原告は、気象、水象の予測がむつかしいこと、ゲート操作に時間のかかるのが実態であってみれば、水位幅一・二メートルの洪水調節容量では、そもそも調節が不可能なのであるから、右容量の増大を図るべく、洪水期には水位幅にして最大一四メートルの容量を常に確保する方式(制限水位方式)を採用しておくべきであり、これを採用しておれば前記過放流をしなくてすんだものであると主張するところ、既に判断したように過放流は流入量減少期には不回避的に起こるものであって、洪水調節容量の大小とは無関係のことであるが、右方式を採用していれば、前記二一時一五分以降の急激な増放量をしなくてすんだか否かについて以下検討しておく。

1  一般に洪水調節容量が大きければ大きいほど、多量の流入量に、また長時間に渉って対応でき、それだけ調節能力が高まるということができる。本件ダムについては累述したとおり、一定の時期に予め右容量を確保するのではなく、洪水警戒体制をとったときに貯水池の水位を標高三八メートルにまで下げ、これから標高三九・二メートルまでの一・二メートルの水位幅で洪水調節をする予備放流方式をとっていたのである。しかし《証拠省略》によれば、本件災害の発生後である昭和四八年二月二三日、建設省河川局開発課は山口県土木部長(本件ダムの管理を担当する部の長)に宛てて、ダム管理の強化と題する概要次のような指示をしていること、すなわち昭和四七年の豪雨による出水にかんがみて、設計洪水量、無害流量、計画洪水波形のほか洪水調節容量及び洪水調節容量確保の方法について現状の操作規則を検討することを求めていること、これに応じて山口県土木部長は昭和四九年二月二七日ダム管理事務所長に対し、規則改正の必要があると考えられるが、それまでの暫定措置として右容量及びその確保の方法として、毎年六月一五日から九月一五日までを洪水期間とし、そのうち六月一五日から七月一五日までは常時最高水位を標高三七メートル(制限水位)としておき、洪水警戒体制にはいったときは、それを標高三六メートルにまで下げ(予備放流水位)、七月一六日から九月一五日までは右制限水位を標高三八メートル、予備放流水位を標高三六メートルとすることを通知していることが認められ、弁論の全趣旨によればダムの施設には何らの変更が加えられておらず、水の需要も減少していないことが認められるのであるから、右認定事実によれば本件ダムにおいては本件災害発生前に右と同様の容量設定とその確保を図ることをできたものと認めることができ、本件ダムが洪水調節のみならず、上水、工業用水の供給、発電をも目的としていることは何ら右認定を妨げるものではない。

2  しかし、右目的を全く無視することはできないのであって、貯水池の水位を右予備放流水位の標高三六メートル以下である原告主張の標高二五・五メートル(その差は一〇・五メートル)あるいは次に述べる標高三三メートル(その差は三メートル)にまで下げることが可能であったことについてはこれを認めうる証拠はない。

そして右予備放流水位を標高三六メートルにした場合、本件のような急激な増放流を避けえたかについてみると、《証拠省略》によれば、ダムの越流頂は標高三三メートルであって、それ以下に水位を下げていても、それ以上に水位が上昇するまではゲート操作による放流調節はできないこと、そこでいま水位を右越流頂である標高三三メートルにまで下げていたとして、本件流入量を規則一六条本文により放流をした場合(右三三メートルを越える流入量を自然越流した場合と結果において異ならない)、放流抑制を解除して増放流を再開した二一時一五分ごろの貯水池の水位は、右放流抑制を考慮に入れなければ標高約三五・二六メートルであること、右抑制された流入量は前認定のとおり約四七万立方メートルであり、右放流の場合(水位を三三メートルに下げた場合)における抑制時間(一九時ないし二一時一五分)内の貯水池の水位は標高三四メートルないし三五メートルであるから、右抑制量は貯水池の水位にして約二六センチメートルであることが認められる。そうすると貯水池の水位を三三メートルに下げて規則一六条本文による放流をし、かつ一九時から二一時一五分まで本件放流抑制をした場合右水位は標高約三五・五二メートルとなるから、当初の水位を前記制限水位と予備放流との併用により標高三六メートルに下げていた場合は、二一時一五分ごろにおける貯水池の水位は単純に計算すれば、約三八・五メートルとなり、これでは前出《証拠省略》により認められる本件の場合における二一時一五分の右水位である三八・四三メートルと殆んど変らないこととなる。したがって貯水池の水位を三六メートルにまで下げていれば、二一時ごろには、前認定の来るべき予測流入量に対し余裕をもって対応できるだけの洪水調節容量があったものであるとはいえず、右水位に下げなかったことと前記急激な増放流との間には因果関係はなく、またこれを認めうる証拠もない。

第七通知、警報の懈怠と瑕疵

一  これまで認定、判断してきたところによると、流入量予測、放流抑制、急激な増放流及び制限水位制の不採用はいずれも本件ダムの管理の瑕疵とはいえないのであり、してみれば本件溢水は避け難いものであったといわざるをえない。そこで次にダム管理者においてとりうる損害発生の回避措置の一つである避難対策を実施しなかったことが、そもそもダム管理の瑕疵に該当するか否か、瑕疵に当たるとして、右実施しなかった事実及びそれと損害発生との因果関係が問題となる。水害に関する避難対策については水防法、災害対策基本法などにより、主として河川管理者以外の者が行なうこととなっていることから、右対策を実施しないことなどをもって河川等の管理の瑕疵に当たるか否かについては議論のあるところである。しかし河川法四八条はダムの操作によって、流水の状況に著しい変化が生じ、これによって危害を防止する必要があると認められるときは、政令に定めるところにより、ダムの設置者はあらかじめ関係都道府県知事、関係市町村長、関係警察署長に通知するとともに、一般に周知させるための必要な措置をとらなければならないとしており、政令によれば(三一条)、通知の内容には操作日時、見込み放流量、これによる下流の水位上昇の見込みを示さなければならず、周知方法は建設省令で定める方法によりサイレン、警鐘、拡声機等により警告し、この方法を立札により掲示しなければならないこととされている(河川法四八条、本件ダムの場合適用除外されているが、であるからといってダム管理者において通知、周知の義務が免除されているものでないことは前述のとおりである)ことが認められ、さらに前出甲第一号証によれば本件ダムについても規則二六条において右河川法四八条と同様の定めをし、通知先を別紙規則(抜粋)の別表の機関としていることが認められ、《証拠省略》によれば、右周知方法としてはダム下流の別紙3図の箇所に警報局を設け、同所の拡声機から肉声で放送し、また同所に設置してあるサイレンを吹鳴して知らせ、加えて警報車を出動させて周知させることとなっていたことが認められる。右認定事実と法規の趣旨及び本件ダム設置の目的に鑑みれば、前記規則二六条所定の通知、周知を怠ることは本件ダムの管理の瑕疵に当たるものと解するのが相当である。

二  そこで右通知及び周知がなされなかったか否かについて検討する。

1  《証拠省略》によれば、毎年洪水期(五月から一〇月)の前にダム管理事務所が主宰する関係機関との連絡協議会(関係機関は宇部市の各支所、土木事務所、厚東駅、消防署、農業協同組合)において、ゲートの開度いくらのときに警報を出すかを取り決め、本件災害発生当時は右開度が一メートル、三メートル、五メートル、八メートルのときには右各機関に連絡するとともに、前記各警報局のサイレンを吹鳴し、巡回車を走らせてこれを周知させることとなっていたこと、そして、管理事務所からは一一日ゲート開度を八メートルにするとき(これは開度を七・九メートルとした一八時か)宇部市の二俣瀬、厚東、厚南の各支所、二俣瀬駐在所、厚東駅及び妻崎漁業組合に通知し、二一時ごろには少なくとも右各支所には通知をしたが、それ以後は前記急激な増放流をしながら何らの通知をしていないこと、また通知の内容も前記政令で定める放流による当該下流の水位上昇の見込みあるいは溢水等災害発生の危険性についての情報が含まれていなかった可能性の極めて高いことが認められ、反証はない。

2  《証拠省略》によれば、管理事務所では、放流等を周知させるため巡回用の警報車を設備していたことが認められ、《証拠省略》によれば、一一日一五時三〇分までは右車両を出しているが、その後は巡回をしていないこと、しかし二〇時ごろ巡回に出ようとしたところ、管理事務所の下方一九〇メートル附近で崩土があり、そのため巡回は不可能であったことが認められる。

3  ところで、サイレンの吹鳴等についてであるが、《証拠省略》によれば、昭和四六年に車地警報局が設置されるまでは、本件被災地附近については宇部市の二俣瀬支所に依頼して同所にあるサイレンを吹鳴することになっていたが、右警報局の設置に伴ない、昭和四七年五月二二日開催の厚東川ダム放流協議会において、右依頼をとり止め、したがって本件災害発生時には右警報局のサイレンを吹鳴して警報を発することとなっていたこと、車地警報局にはサイレンと拡声機が備え付けられ、その動力は通常の電力によるが、停電の場合は自動的にバッテリーに切り替ることになっていること、サイレンの吹鳴は五五秒鳴らし五秒休みこれを三回繰り返し、その音は半径約三キロメートルないし四キロメートルの円内の範囲に聞え、原告宅は右警報局から直線距離で七〇〇メートルないし八〇〇メートルのところにあること、サイレンの操作は管理事務所で行ない、実際の操作に当たっては前もって右事務所で試験ボタンを押し、同事務所の発信音を聞いて有効にサイレンが作動することを確認できるようになっていたこと、さらにサイレン、拡声機の使用のほか管理事務所では二俣瀬支所に対し有線で警報方を放送するよう電話で依頼していたが、当日は一五時三〇分以後は電話が通じなかったことが認められる。これらの事実によればサイレン及び拡声機でもって、警報を発するよう管理事務所で操作すれば、車地警報局の近辺はもとより、原告宅附近においても、十分それを聞くことができたことが推認できる。

ところが、《証拠省略》によれば、清水において一度放送があったとの記憶がある以外、原告宅とはそんなに遠くない前第三認定の自宅あるいはその附近にいた右証人及び原告らはいずれもサイレンの音を聞いていないことが認められ、証人松永定男はサイレンを吹鳴したことについては管理事務所に記録があると供述する(証人松本は警報車の出動について記録があると供述する)が、今日に至るまで、右記録は証拠として提出されておらず、反証としてサイレンの吹鳴音を聞いた旨の証拠資料の提出もない。

以上の認定事実と訴訟の経過を総合するとサイレンによる警報及び少なくとも増放流を知らせるべき拡声機による放送は行なわれなかったことが推認でき、証人松本栄治、同松永定男の供述のうち右推認に反する部分は前掲証拠と対比して採用できない。

4  これら1ないし3の認定あるいは推認の結果を要約すると、警報車の巡回及び有線放送の利用による周知方法をとりえなかったことは、予期しえない崩土の発生により通行不能となり、あるいは電話が通じなかったためであるから、やむをえないものであるが、関係機関に対する通知が、前記増放流を再開したとき以降はなされておらず、それ以前の通報にしても、その内容において通報の目的を充していない可能性があり、サイレンによる警報は全くなく、拡声機による放送は本件災害に関しては全くなされないに等しいものであったということであって、前一において述べたところから、右不作為は本件ダムの管理の瑕疵に当たるというべきである。

第八前記瑕疵による損害

一  因果関係

1  本件溢水により、原告の家屋が浸水し、その最高浸水位が標高約一四・六一メートルであったことは、前第二及び第三の一においてそれぞれ認定したところであり(第二回の検証の結果によれば、右水位は、右家屋の地盤から一・〇五メートルであることが認められる)、これと原告本人尋問の結果及びこれにより原告主張の写真であると認められる《証拠省略》により認められる浸水及び被災の状況(これは右《証拠省略》に撮影されているとおりである)によると、右浸水により原告主張の家屋、家財道具、営業用工具、商品に被害のあったことが推認できる。

そして、前第三の二における認定事実を総合すると原告宅では二二時ごろには急激な浸水が始ったものと推認でき、前第六の八の認定事実によれば、二一時には以後ダムの流入量が増加し二四時には毎秒一〇〇〇立方メートルを越える流入量が予測され、これらに対処するため、二〇時四五分には放流抑制を解除して増放流をすることとし、二一時一五分からゲートの開度を拡げたというのであるから、遅くとも右増放流をすることを決定すると同時と管理事務所がサイレン吹鳴、拡声機による放送の措置をとっていれば、原告において、被害を回避する行動をとりえたものであるということができる。

しかし、右サイレンの吹鳴などをしなかかった瑕疵と因果関係のある損害は、物理的に損害回避の可能性のあったものに限られることはいうまでもないから、原告が主張する損害項目の家屋関係のうち、壁など不可動物件の損傷とは右因果関係がない。

しかし、後記損害の項で認定した被災物件については、それらの物件の性状及び数量と原告本人尋問の結果とを総合すると、右物件は原告及びその家族などの手により、原告宅二階その他適宜の場所に移動させるなど、浸水による被害を回避する措置をとりえたものであることが認められる。

2  ところで、水害に対する避難対策などは、主として河川管理者以外の者が行なうこととなっていることは、前述のとおりで、これを水防法によってみても、市町村の区域における水防責任は原則としてその長にあり(三条)、水防管理たる市町村長(二条二項)は河川の巡視(九条)、水位の通報(一〇条の三)、出動命令(一〇条の五)、警戒区域の設定(一四条)、援助、応援の要求、依頼(一五条、一六条)などの水防活動を行なうこととなっている。したがって本件のように河川水の溢水の危険性が差し迫っている場合に、当該地区住民にこれを周知させるのは、本件サイレンの吹鳴を唯一の方法としているのではなく、むしろ適切に右水防活動の行なわれることが期待されているものであるから、右活動に懈怠があれば、前記因果関係(寄与割合)を考えるに当たって、右懈怠の内容、程度、本件損害との因果関係などの事実につき検討を要するところであるが右事実については何らの主張がない。

3  さらに、被告は本件溢水の原因として、甲山川から多量の河川水の流入のあったこと、中洲の存在、二俣瀬地区の河川改修が未改修であったことを挙げ、右中洲の買収が困難であったこと、改修のための財政的、技術的及び社会的制約があったと主張するが、既に認定したとおり、本件ダムは洪水調節をも目的としたものであり、洪水調節においては下流の地形、水位などを見合わせながら行なうものであるから、右甲山川からの予測流入量、中洲による流れの阻害などは所与の条件として、これを勘案しながら調節放流をしなければならないものである。そして右条件下においても、ダムへの将来の予測流入量、当時の洪水調節残容量などから、大きな災害の発生を避けるため、溢水につながる放流をしなければならなかった場合には、それは回避可能性が否定されるのであり、他方そのことの故にサイレン吹鳴などの懈怠の責任が軽減されるものでもない。したがって本件の場合を、河川の自然流水による水害の場合と同一に論じることはできず、また前記因果関係において被告が主張する右原因を考慮することはできない。

二  損害

そこで、前記因果関係のないものを除き、その余の原告主張の損害の項目とその額につき個々に検討すると次のとおりである。

1  家屋関係     七万三〇〇〇円

《証拠省略》によれば、前記浸水により原告は畳、建具をとりかえなければならなくなり、これに要した費用が合計七万三〇〇〇円であることが認められる。

2  家財道具、衣類等

二三万九六一〇円

《証拠省略》によれば、前記浸水により、テレビ、掃除機、洗濯機、冷蔵庫が水に漬かるなどして損害を受け、その修理に要した費用が三万九六一〇円であること、また、衣類、靴などにも被害が発生し、使用できなくなった家族五人分の衣類、靴などは二〇万円相当のものであることが認められる。また、家具についても若干の被害が発生したことは窺えるけれども、その損害額については原告の供述によってもそのいうところの損害額はあまりにも大雑把であり、右損害額は認めることができない。

3  営業用工具など     五三万円

《証拠省略》によれば、原告は主として車両の修理を業としており、そのため当時修理のための工具、部品、機械及び自動車用品を居宅兼用の工場に備えていたこと、前記浸水により工具、部品の一部は使用不能となり、オイルは罐に水が入り、比重の関係でオイルが浮上するため流失し、機械類は修理をしなければならなくなったこと、これによる損害額は原告が損害項目として主張する営業用工具のうちに右機械類の修理費用を含めなくても、その主張する五三万円を下るものでないことが認められる。

4  商品      一七万五〇〇〇円

原告本人尋問の結果によれば、原告は前記車両の修理のかたわら、当時自動車、自転車、自動二輪車などの販売をも行なっており、この販売用の車両を所有していたこと、そしてこれらの車両も水に漬かったことから原告は右車両のうち自転車一二台を仕入れ価額の約三〇ないし五〇パーセントの価額で売却することを余儀なくされ、これにより原告は合計一七万五〇〇〇円の売却損を蒙ったことが認められる。

自動車五台と自動二輪車八台、合計一三台の売却損については、原告はその修理費には費用と時間がかかりすぎ、損害の拡大を免れるためには売却の他なく、そこで右車両をいずれもスクラップとして売ったものであり、その売却代金は右自動車のうちその仕入価額がそれぞれ八万五〇〇〇円、一三万五〇〇〇円、五万円であるいわゆる軽四乗用車三台は各一五〇〇円、その仕入価額が四五万円と二三万円である小型乗用車は各六〇〇〇円であり、自動二輪車八台はその仕入価額が三万五〇〇〇円ないし八〇〇〇円(一台平均一万八三七五円)であるところ、売却代金は合計八〇〇〇円(一台平均一〇〇〇円)であったと供述する。そして右各車両の被災状況に関しては右供述以外にこれを認めうる証拠はなく、さらに右車両一三台の売却代金については、原告本人尋問の結果によれば、これに関する唯一の証拠というべき買取証明書は、本件提訴後右車両の買受人である株式会社西宇部自動車に作成を依頼し、再発行してもらったものであり、原告と右会社との間には継続的に車両の売買があるところから、右車両一三台の売却価額を正確に出すことができず、そこで前記売却代金は昭和四七年八月ないし一〇月の売却価額から右一三台分を各割り当てて、算出したものであることが認められる。

してみると右車両一三台の売却価額自体に疑問のあることはもとより、仮に右売却価額が前記原告の供述のとおりであったとしても、果してそれが適正な価額であったかについては、多大の疑問が残り、いま直ちに右車両一三台の売却損を本件損害に加えることはできない。

5  借入利息

《証拠省略》によれば、原告が昭和四七年一〇月一七日国民金融公庫(下関支店)から、利率を年六・七パーセントとして一〇万円を借り受けたことは認められ、原告の供述によれば、これは本件水害による復旧資金として借り入れたとのことであるが、借入れの具体的必要性、その具体的使途などについては、これを認めうる証拠のないいま、右認定事実と原告の供述のみをもって、直ちに右借入金の利息が本件災害と相当因果関係のある損害ということはできない。

第九過失相殺

原告本人尋問の結果によれば、原告が昭和三三年から本件浸水のあった原告宅に移り住むようになったこと、それまでも右原告宅には父が住んでいて、原告は時々帰っていたこと、原告は本件災害までにも二俣瀬では何年かに一度という割合でかなりの出水のあったのを知っていること(但し原告宅に被害らしいものはなく、床下浸水ぐらいであった)が認められるが、そのほか被告が原告の過失として主張する事実を認めるに足りる証拠はない。

第一〇結論

以上の次第であるので、本件ダムについては昭和四七年七月一一日サイレンの吹鳴、拡声機による放送を怠ったという管理の瑕疵があり、これにより原告に前記合計一〇一万七六一〇円相当の損害が発生したものであるから、被告は原告に対し右損害を賠償すべき義務がある。よって原告の本訴請求は、被告に対し右損害金一〇一万七六一〇円とこれに対する本件災害の発生日ののちであることの明らかな昭和四七年九月八日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金を求める限度で理由があるから、これを認容し、その余は失当であるから、これを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文を適用して、主文のとおり判決する。仮執行宣言の申立は、本件の場合相当でないので、これを却下する。

(裁判長裁判官 大西浅雄 裁判官 岩谷憲一 裁判官木村元昭は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 大西浅雄)

〈以下省略〉

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